32:Jugendkonzentrationslager Uckermark

203月 - による conmo3 - 0 -
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1938年サクセンハウゼン強制的収容所の男性受刑者によって【Frauenkonzentrationslager(FKL)Ravensbrück】女性の強制収容所ラーベンシュブリックの建設が開始される。リヒテンバブル強制収容所(KZ Lichtenburg)からラーベンシュブリックへの最初の女性収容者が送られて来る。
1940年8月モーリンゲン青少年保護キャンプ(Jugendschutzlager Moringen)から最初の男の子と若者がラーベンシュブリック強制収容所に移送されたことをきっかけに、1941年女児と若い女性のためのウッカーマルク青少年強制収容所(Jugendkonzentrationslager Uckermark)は、ラベンズブリュック強制収容所から東へ1.5km離れた所に設置された。とりわけ、拘禁された者は6歳から21歳までの犯罪者であるか、国家敵対的および非社会的で更生が困難であるとみなされた者達だった。年齢制限(21歳)を超えたとき、彼らはラベンズブリュック強制収容所に移された。使用されていたバラックは急いで建てられた非常にシンプルな木製の建物であった。所長はLotte Toberentzで副所長はJohanna Braach Kriminalobersekretärin(SS Obersturmführer)が勤務していたが、両強制収容所は統一された管理下にあった。
6月最初の70人の女の子が移送されて来る。ウッカーマルク青少年強制収容所の収容者は、青少年福祉事務所から送られて来たものや、家庭や少年裁判所からの要請、帝国刑事警察署に抑留された若い女性や少女達であった。多くは福祉機関から直接キャンプに移送され、強制労働についた。
1942年、戦争経済における強制収容所囚人の使用のモデルとして、強制収容所に直接、シーメンス&ハルスクにより2つの作業場が設置され、武器生産の為の部品が製作させた。
1945年1月の解散までに約1000~1200人が収容された。その後この施設は、52才以上もしくは病人が収容されていたが、ラベンズブルク強制収容所の【労働】か【死】の選別キャンプとして4月まで使用された。赤軍による解放の後、一時期受刑者のための病院として利用されていたが解散後、1993年まで赤軍の兵舎として使用されその後解体された。
「青少年保護キャンプ」と呼ばれていたウッカーマルク強制収容所は記録が残されていない為、犠牲者の數なども分からず、戦後ハンブルクでラーベンシュブリック・プロセスが開かれ、女性キャンプマネージャー5人が第3ラーベンシュブリック・プロセスによって裁かれたが青少年強制収容所運用時の収容所内での死は殺人とみなされずLotte Toberentz(収容所長)、Johanna Braach(副所長)は無罪とされた。連合国による戦争裁判のためウッカーマルク青少年強制収容所にはドイツ人囚人が収容され、連合国籍の女性が収容されなかった為、裁判の対象ではなかった。その為ウッカーマルク青少年強制収容所は「忘れられた」収容所と呼ばれることになった。

第3ラーベンシュブリック・プロセス(Uckermarkプロセスとも呼ばれる)
期間14. April から 27. April 1948
ラベンズブリュック強制収容所の女性監視員5人に対して外部キャンプKZ Uckermarkの運営に関する告発
連合軍捕虜の虐待
これらの2つのキャンプのガス室のための同胞の選択に参加

被告 収容所内での仕事 評決
Lotte Toberentz 収容所長 無罪
Johanna Braach 収容副所長 無罪
Elfriede Mohneke 囚人の選別作業監督 禁固刑10年。1952年6月14日に釈放
Margarete Rabe 囚人の選別作業監督 終身刑。1950年、禁固刑21年の懲役刑に減刑。1959年6月16日に釈放
Ruth Neudeck 囚人の選別作業監督 有罪絞首刑、1948年7月29日に実行