KONZENTRATIONSLAGER ORANIENBURG

2019年2月12日 Aufzeichnungen

オラニエンブルク強制収容所(KONZENTRATIONSLAGER ORANIENBURG)
1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に任命され、ヘルマン・ゲーリングをプロイセン州内相に任じた。オラニエンブルク強制収容所はゲーリングによって1933年2月27日の【国会議事堂放火事件】の犯人として逮捕(翌28日には4,000人の共産主義者を逮捕)したドイツ共産党員を収容する施設としてオラニエンブルク中心部ベルリン街にある電機会社の工場を改造し州公認の強制収容所として創設された。運営は突撃隊所有の収容所という位置づけで地元の警察補助金で行われていた。収容所管理は初め突撃隊が行い、初代所長も突撃隊大佐シュルツェ=ヴェルツンゲンが就任。囚人の大多数はドイツ社会民主党員やドイツ共産党員などの左翼政治犯であり扱いも必ずしも劣悪ではなかった。

初期(1933年‐1934年)の州公認の強制収容所
オラニエンブルク強制収容所
エステルヴェーゲン強制収容所
パーペンブルク強制収容所
リヒテンブルク強制収容所
ゾネンブルク強制収容所
ブランデンブルク強制収容所

1933年3月、シュルツ=ヴェルツンゲン所長が公表した囚人の日課は次の通りである。
囚人の日課は
5時30分、起床
6時までに身支度を整える。
7時半までに室内換気、清掃、朝食をすませる。
7時半から12時半まで労働
12時半から昼食と休憩
14時半から16時まで教練
16時から17時半まで運動
寝床は清潔であるし、定期的な健康診断が行われ、三度の食事は栄養たっぷりで一般の国民よりも良い物を食べていたという。反体制分子の隔離というよりは、思想を矯正して社会復帰させる事を目的としていた1933年のクリスマスにはゲーリング内相の恩赦による多くの囚人を解放している。
1933年6月、ゲーリング内相は強制収容所の運営は補助警察(突撃隊、親衛隊、鉄兜団から成る)が行うと定めた。ルドルフ・ディールス(Rudolf Diels)プロイセン州秘密警察局長(ゲシュタポ(Preussisches Geheimes Staatspolizeiamt))も運営に深く関与するようになり、1933年秋頃から刑事犯が収容されるようになったため、囚人の扱いがしだいに乱暴になってきた。
1934年4月20日、ゲーリングは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーをゲシュタポ局長より上位の「ゲシュタポ監査官及び長官代理」(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts) 任じた。ヒムラーは就任後、直ちにディールスをゲシュタポ局長から解任し、ラインハルト・ハイドリヒを後任に据えた。
1934年6月30日から7月2日にかけて【長いナイフの夜事件】で突撃隊幹部が粛清され、管理は親衛隊によって行われるようになる。1934年8月1日には他の強制収容所とともに国営になった。
しばらくの間、シュルツ=ヴェルツンゲン所長はその職に留まっていたが、1934年9月、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命令でこの収容所は1935年3月をもって正規の収容所としての役割を終了することが決定された。1936年7月、新たにオラニエンブルク強制収容所の東側にザクセンハウゼン強制収容所が設置され、その補助収容所へと格下げされた。この際にシュルツ=ヴェルツンゲンも解任された。
1937年7月には補助収容所としての役割も終えた。オラニエンブルク強制収容所の跡地には強制収容所総監府・髑髏部隊総司令部が置かれた。