Aktion T4 Phase 2a [1940年1月-1941年8月]

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Aktion T4 Phase 2a [1940年1月-1941年8月]

安楽死(Euthanasie)のフェーズ
Phase 1 子供の「安楽死」[1939年-1945年]
Phase 2 成人の「安楽死」[1939年-1945年]
a Aktion T4[1940年1月-1941年8月]ガス殺
b [1941年9月-1945年]薬殺
Phase 3 Aktion 14f13[1941年4月-1944年12月]
a [1941年4月-1944年4月]
b [1944年4月-1944年12月]
Phase 3 Aktion Brandt[1943年6月から1945年]

Phase 2 成人の「安楽死」[1939年-1945年]
ヒトラーの私事に対処し、彼に宛てられた請願のリクエストを処理し、恩赦を与える組織(苦情事務所)として
1934年11月17日にPhilipp Bouhlerによりベルリンのリュッツォウファー(Lützowufer)にKanzlei des Führers(KdF)を設立。
その後 フォスシュトラッセ4(Voßstraße 4)の新総統官邸に移る。

総統官房Kanzlei des Führers der NSDAP (KdF)
1939年、195人の従業員がKdFに勤務し3つ責任領域を担当した。
A慈悲のための嘆願(Gnadengesuche)。
B外国為替配分、経済援助の付与または譲歩の付与。
C:「ニュルンベルク法」に基づく結婚禁止の免除及び「遺伝性疾患の子孫の予防に関する法律」に基づく強制不妊申請。

官房長:フィリップ・ボウラー(Reichsleiter Philipp Bouhler )
官房長副官:カール・ミシェル・フォン・テュスリング(Adjutant: Karl Michel von Tüßling)
↳Ⅰ Amt 総務人事(Privatkanzlei)
:アルベルト・ボルマン(Oberdienstleiter Albert Bormann)
↳Ⅱ Amt 国家および政党に関する事項(Angelegenheiten betr. Staat und Partei)
:親衛隊上級大佐ヴィクトール・ブラック(Oberdienstleiter Viktor Brack “Jennerwein”)
↳↳Ⅱa 本社の副所長II(Stellvertretender Leiter des Hauptamtes II)
:突撃隊上級大佐ヴェルナー・ブランケンブルク(Oberbereichsleiter Werner Blankenburg “Brenner”)
↳↳Ⅱb 帝国省庁に関する事項(Angelegenheiten betr. die Reichsministerien; auch Gnadengesuche)
慈悲のための嘆願(Angelegenheiten betr. die Reichsministerien; auch Gnadengesuche)
室長:ハンス・ヘフェルマン(Amtsleiter Hans Hefelmann[1936年1月-])
副室長:リヒャルト・フォン・ヘゲナー副室長(Stellvertreter Richard von Hegener)
↳↳Ⅱc ドイツ国防軍、警察、SDに関する事項。教会も(Angelegenheiten betr. Wehrmacht, Polizeiund SD; auch Kirchen)
:ラインホルド・フォルベルク(Amtsleiter Reinhold Vorberg「Hintertal」[1937-])
↳↳Ⅱd 党の業務(Parteiangelegenheiten)
:(Amtsleiter Buchholz[-1942])
:(Amtsleiter Brümmel[1942-])
↳Ⅲ Amt 党事務局(Gnadenamt für Parteiangelegenheiten)
:親衛隊中佐フーベルト・べルケンカンプ(Oberdienstleiter SS-Obersturmbannfiihrer Hubert Berkenkamp)
:クルト・ギース(Kurt Giese[1941 – 1945])
↳Ⅳ Amt 社会経済問題(Sozial- und Wirtschaftsangelegenheiten)
:(Hauptamtsleiter Heinrich Cnyrim)
↳Ⅴ Amt 内務と人事Internes und Personal)
:(Oberdienstleiter Herbert Jaensch)

重度の身体障害と知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えたことをきっかけに。KdF主導による「安楽死」という大量殺害の計画が始まる。後にこの訴えは「私は告発する(Ich klage an)監督Wolfgang Liebeneiner」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった。

1939年9月1日 総統アドルフ・ヒトラーの国家社会主義「安楽死」プログラムの実施許可を命じた。「計画の全権委任者」として総統官房長フィリップ・ブーラーと総統主治医カール・ブラントを指名。
総統官房Ⅱ Amtの主導で非公式外局施設として中央局(Zentraldienststelle)を設置、1939年12月1日 リヒャルト・フォン・ヘゲナーがポツダム広場1(Potsdamer Platz 1)にあるコロンブスハウスに3〜4室の事務室を借りる。1941年のベルリンの住所録にGemeinnützigen Krankentransport GmbHの名前がコロンブスハウスに登録されている。1940年4月にTiergartenstraße 4に事務所を移設。6部門で構成され、4つの偽装会社を運営した。

【中央局(Zentraldienststelle T4)】
↳事務所部門(Büroabteilung) NS特別登記所(NS-Sonderstandesamt)、商業登記など法的事務担当。
:親衛隊中尉ゲルハルト・ボーネ(Gerhard Bohne[1939年10月17日-1940年6月末])。
:フリードリッヒ・ティルマン([1940年2月-])
:ディートリッヒ・アラーズ(Geschäftsführer Dietrich Allers[1941年1月-])
↳行政弁護士:ディートリッヒ・アラーズ(Dietrich Allers[1940年6月末-1941年1月])
↳簿記係:アルフレッド・イットナー(Alfred Ittner【R】[])

↳医療部門(medizinische Abteilung)6つの施設の医療および看護スタッフの監督。慈悲死の鑑定。
:ヴェルナー・ハイデ(Werner Heyde[ – 1941年12月])
:ヘルマン・ポール・ニツッシュ(Hermann Paul Nitsche[1941年12月 -])
上級慈悲死鑑定者(Obergutachter)
:ヴェルナー・ハイデ(Werner Heyde[1939年10月-1941年12月])内務省
:ヘルマン・ポール・ニッチェ(Hermann Paul Nitsche[1940年2月28日-])ゾンネンシュタイン精神施設(Heilanstalt Sonnenstein)所長
:ヘルベルト・リンデン(Herbert Linden[1939年10月から])内務大臣直轄

慈悲死鑑定者(Gutachter)
:ヘルマン・プファンミュラー(Hermann Pfannmüller[1939年11月17日-])
:エルンスト・ワーゲンクネヒト(Ernst Wagenknecht[1939年11月17日-1940年2月16日])
:エルンスト・ヘフター(Ernst Hefter[1939年11月17日-])
:ハンス・ハインツェ(Hans Heinze[1939年11月17日-])
:ウォルター・カルデウィー(Walter Kaldewey[1940年2月28日-1941年1月29日])
:カール・ハインツ・ローデンベルク(Carl-Heinz Rodenberg[1940年2月28日-1940年10月14日])
:アルトゥール・シュレック(Arthur Schreck[1940年2月28日-1940年11月30日])
:テオドール・スタインマイヤー(Theodor Steinmeyer[1940年2月28日-]Zentraldienststelle[1940年5月12日-1940年10月31日])
:ヘルマン・ポール・ニッチェ(Hermann Paul Nitsche[1940年2月28日-])
:フリードリッヒ・メンネック(Friedrich Mennecke[1940年2月28日-])アイヒベルク州医療養護施設(Heil- und Pflegeanstalt Eichberg)長[1939年1月-]
:フリードリッヒ・パンス(Friedrich Panse[1940年5月14日-1940年12月16日])
:カール・シュナイダー(Carl Schneider[1940年4月20日-])ハイデルベルク大学精神医学部門会長
:クルト・ポーリッシュ(Kurt Pohlisch[1940年4月30日-1941年1月6日])
:コンラッド・ザッカー(Konrad Zucker[1940年5月8日-])
:ゲオルグ・レンノ(Georg Renno[1940年5月31日-])
:オットー・ライシュ(Otto Reisch[1940年4月30日-1940年7月2日])
:オットー・ヘボールド(Otto Hebold[1940年5月8日-])カイザーウィルヘルム研究所研究員
:ルドルフ・ロナウアー(Rudolf Lonauer[1940年5月9日-])
:ハンス・アロイス・シュミッツ(Hans Aloys Schmitz[1940年7月30日-1940年11月14日])
:ベルトホールド・キーン(Berthold Kihn[1940年6月5日-])
:ギュンター・ムンクヴィッツ(Günter Munkwitz[1940年7月25日-1941年1月31日])
:ヴィルヘルム・シューマッハ(Wilhelm Schumacher[1940年8月5日-])
:オスカー・ベグッシュ(Oskar Begusch[1940年9月2日-1941年7月4日])
:エルンスト・ソルガー(Ernst Sorger[1940年9月2日-1941年3月8日])
:ウォルター・シュミット(Walter Schmidt[1940年9月2日-1940年12月])
:フリードリヒ・マウズ(Friedrich Mauz[1940年9月6日-])
:バレンティン・ファルトルハウザー(Valentin Faltlhauser[1940年9月6日-])
:ハンス・ヘイン(Hanns Heene[1940年9月6日-1940年12月])
:フランツ・フェーリンガー(Franz Fehringer[1940年9月6日-1941年1月13日])
:ハンス・バーサ(Hans Bertha[1940年9月30日-1941年3月])
:エルウィン・ジェケリウス(Erwin Jekelius[1940年10月14日-1941年2月])
:ロベルト・ミュラー(Robert Müller[1941年3月4日-])
:ヴェルナー・ヴィリンジャー(Werner Villinger[1941年3月28日-])
:エーリッヒ・ストラウブ(Erich Straub[1941年7月8日-])
:ゲルハルト・ウィッシャー(Gerhard Wischer[1941年8月2日-])
:カート・シュマレンバッハ(Curt Schmalenbach[1941年8月28日-])
:ビクター・ラトカ(Victor Ratka[1941年9月10日-])
:カード・ルンケル(Curd Runckel[1942年10月3日-])
:アルフレッド・シュルツ(Alfred Schulz[1943年5月7日-])
:グスタフ・シュナイダー(Gustav Schneider[1943年5月31日-])

子どもの慈悲死鑑定者(Gutachterliste der Kinder-Euthanasie)
:ヴェルナー・カテル(Werner Catel[1939年秋 -])
:ハンス・ハインツェ(Hans Heinze[1939年秋 -])
:エルンスト・ウェンツラー(Ernst Wentzler[1939年秋 -])

↳経済部門(Hauptwirtschaftsabteilung)中央局とその関連機関の機器を管理。遺体より回収した歯より金、銀を取り出してDegussaに販売。

:ウィリー・シュナイダー(Willy Schneider[])
:フリッツ・シュミーデル(Fritz Schmiedel[])
:フリードリッヒ・ローレント(Friedrich Lorent[])
↳運輸部門(Transportabteilung)慈善救急車サービス社を運営管理。
:ラインホルド・フォルベルク(Reinhold Vorberg)
実務をゲルハルト・シーベルト(Gerhardt Siebert)、フリードリヒ・クラウス(Friedrich Krauss)が担当する。
↳人事部門(Personalabteilung)
:フリードリヒ・ハウス(Friedrich Haus)
↳検査部門(Inspektionsabteilung)
部長:グスタフ・カウフマン(Adolf Gustav Kaufmann)
スタッフ募集責任者:(Stefan Schachermayr(1912–2008))
:(Franz Peterseil(1907–1991))
:グスタフ・カウフマン(Adolf Gustav Kaufmann)
ガス室と焼却棟建設を指揮;エルウィン・ヘルマン・ランバート(Erwin Hermann Lambert[1940年1月-])

偽装会社
「帝国協会病院や老人ホーム」(Reichsarbeitsgemeinschaft Heil- und Pflegeanstalten(RAG)[Ende 1939-])
内務省保健局:ヘルベルト・リンデン(Herbert Linden)の提案により設立。
責任者:フリードリヒ・ティルマン(Friedrich Tillmann[])

「財団 非営利団体医療機関」(Gemeinnützige Stiftung für Anstaltspflege(Stiftung))
約400人のT4従業員の雇用者。
責任者:ウィリー・シュナイダー(Willy Schneider[1942年2月-1941年3月])
:フリッツ・シュミーデル(Fritz Schmiedel[März 1941-])
:フリードリヒ・ローレント(Friedrich Lorent[Februar 1942-])

「慈善救急車サービス社」(Gemeinnützige Krankentransport GmbH(Gekrat))
責任者:ラインホルド・フォルベルク(Reinhold Vorberg[])
:ヘルマン・シュウェニンガー(Hermann Schwenninger[])
:ゲルハルト・シーベルト(Gerhardt Siebert[1941年夏-][1943年からIId])
:フリードリヒ・クラウス(Friedrich Krauss)
帝国郵便局から3台の赤いバス、ポストバス(人と郵便を運ぶバス:Kraftpost)2台、赤い郵便配達車を用意した。国会議事堂からもバスを調達
運転手:14人雇用

「健康と養護施設のための中央情報センター」(Zentralverrechnungsstelle Heil- und Pflegeanstalten ZVSt)
責任者:ディートリッヒ・アラー(Dietrich Allers)の指示の下での機関との費用の処理
代表:ハンス・ヨアヒム・ベッカー(Hans-Joachim Becker)。

【Tötungsanstalt Grafeneck】
Grafeneck(A) Baden-Württemberg Gomadingen[20. Januar 1940-Dezember 1940]

中央局の設置と並行して安楽死実行の施設の選択が開始され、ヴュルテンベルク州内務省の強力によりサマリア人財団障害者高齢者施設【Samariterstift Grafeneck】として使用されていたグラフェネック城(Schloss Grafeneck)が選択された。敷地は森に囲まれ、車道が2つしかないグラフェネック城は宿泊、管理棟としても機能できた。1939年10月13日ミュンシンゲン地区管理人Richard Alberが撤去を命じ、翌日、「帝国の目的で」を理由に公式に没収。ホームマネージャーのフランク夫妻、娘、10人の従業員とともに約100人の養育者が400台のバスをロイテ修道院移送。ロイテ修道院い移送された患者は生き延びた。

1940年1月までに、生活管理室、民事登記所、警察署が設置されています。城の敷地には、約100のベッドを備えた木製のバラック、灰色のバス用の駐車スペース、火葬場、シャワー室を装ったガス室が建てられた。1939年10月から12月の間に、城には10〜20人しかいなかったが、1940年には、医師、警察官、事務員、看護と輸送スタッフ、経理と施設内人事スタッフ、警備チームと死体焼却員などほぼ100人の男女が勤務していた。
1940年1月18日からグラフェネックで体系的な殺人が開始された。エーグルフィング・ハール精神病院からバーデンヴュルテンベルク州から40人、バイエルン州から6人、ヘッセ州とノルトラインヴェストファーレン州からそれぞれ1人、合計48人の身体障害者および精神障害者がIG Farbenindustrieから送られたガスで殺害された。

地域医療機関の管理者
バーデン州保健部長(Medizinalbeamter Badens):オイゲン・スタール(Eugen Stähle)
ヴュルテンベルク州内務省上級医官(Medizinalbeamter Württembergs):オットー・モーゼ(Otto Mauthe)
ヴュルテンベルク州内務省保健部長(Medizinaldirektor im württembergischen):ルートヴィヒ・スプラウアー(Ludwig Sprauer)
医療部
当初ヴェルナー・キルヒャートが予定されたがキルヒャートの推薦でシューマンが就任。
医師部長:ホルスト・シューマン(Horst Schumann(“Dr.Klein”[1940年1月-1940年4月])
:エルンスト・バウムハルト(Ernst Baumhard”Dr.Jäger”[1940年4月-1940年12月])
医師部次長:エルンスト・バウムハルト(Ernst Baumhard”Dr.Jäger”[1940年1月-1940年4月])
:ギュンター・ヘンネック(Günther HenneckeDr.Fleck”[1940年4月25日か-1940年12月])
管理部
管理部長:クリスチャン・ワース(Christian Wirth【R】)警部担当、施設の管理監視。
管理部次長:ゲルハルト・クルト・ジモン(Gerhard Kurt Simon “Dr.Ott”,”Keil”)
グラフェネック特別登録事務所長(Sonderstandesamtes Grafeneck)ヤコブ・ウェーガー(Jakob Wöger “Haase”[1939年12月-1940年6月])偽造亡証明書を公式発行、民事登記。
グラフェネック特別登録事務副所長:ヘルマン・ホルツシュー(Hermann Holzschuh “Lemm”[1940年6月-])
火葬担当:ヨーゼフ・オーベルハウザー(Josef Oberhauser【R】)
火葬担当:ルドルフ・ベックマン(Rudolf Beckmann【R】)
輸送担当:ヘルマン・シュウェニンガー(Hermann Schwenninger)
警備:カール・フレンツェル(Karl Frenzel【R】)
運転手:ローレンツ・ハッケンホルト(Lorenz Hackenholt【R】)
運転手:エーリッヒ・ヘルマン・バウアー上級軍曹(Erich Hermann Bauer【R】)
運転手:ウィリー・メンツ(Willi Mentz【R】)
運転手:アウグスト・ミーテ(August Miete【R】[])
グラフェネックの施設は1940年12月13日遺体の火葬で閉鎖される。施設人員はハダマールの施設に移動。
1940年
1月 95人
2月 234人
3月 500人
4月 410人
5月 1119人
6月 1300人
7月 1262人
8月 1411人
9月 1228人
10月 761人
11月 97人
12月 548人
合計 9839人

【Tötungsanstalt Brandenburg】
Brandenburg(B) Brandenburg an der Havel
Brandenburg-Görden Prison Neuendorfer Straße 90c
医療部長:イルムフリード・エベル(Irmfried Eberl【R】”Dr. Schneider”[1940年2月1日から1940年11月])
医療部次長:アクイリン・ウルリッヒ(Aquilin Ullrich”Dr.Schmitt”[1940年3月15日-11月11日])
医療部次長:ハインリッヒ・ブンケ(Heinrich Bunke”Dr.Rieper”[1940年8月-11月])
1940年
2月 105人
3月 495人
4月 477人
5月 974人
6月 1431人
7月 1529 人
8月 1419人
9月 1382人
10月 1177人
合計 9972人

【Tötungsanstalt Bernburg】
Bernburg(Be) Bernburg(Saale)Sachsen-Anhalt
ブランデンブルグのスタッフが移動。
医療部長:イルムフリード・エベル(Irmfried Eberl【R】”Dr.Schneider”[1940年11月-1941年8月])
医療副部長:ハインリッヒ・ブンケ(Heinrich Bunke”Dr.Keller”[1940年11月-1941年8月])
ガス処刑医代理:クルト・ボルム(SS-Obersturmführer Kurt Borm”Dr.Storm”[1941年3月-])
ベルリン-ブッフのカイザーヴィルヘルム脳研究所(Kaiser-Wilhelm-Institut für Hirnforschung)のジュリアス・ハラーフォルデン(Julius Hallervorden)はHeinrich Bunkeから様々な遺体から脳を受け取る。
中間ステーション(Zwischenanstalten)
●ジェリチャウ州立精神病院(Landesheilanstalt Jerichow Jerichow)390人
●ユトシュプリンゲ州立精神病院(Landesheilanstalt Uchtspringe Uchtspringe)864人
●アルトシェルビッツ州立精神病院(Landesheilanstalt Altscherbitz   Schkeuditz)1385人
●ブランデンブルク健康専門クリニック(Asklepios Fachklinikum Brandenburg Görden)1110人
●ノイルッピン州立精神病院(Landesirrenanstalt Neuruppin Neuruppin)1497人
●ウピッツ州立研究所テ(Landesanstalt Teupitz Teupitz,Kreis Teltow)1564人
●ケーニヒスブルター州立医療老人ホーム (Landesheil- und Pflegeanstalt Königslutter Königslutter)423人

1940年
11月 397人
12月 387人
1941年
1月 788人
2月 939人
3月 1004人
4月 1084人
5月 1316人
6月 1406人
7月 1426人
8月 638人
合計 9385人

【Tötungsanstalt Hartheim】
Hartheim(C) Alkoven bei Linz Oberösterreich
医療部長:ルドルフ・ロナウアー(Rudolf Lonauer[1940年4月1日-1945年4月])
医療部次長:ゲオルグ・レンノ(Georg Renno[1940年5月-1945年2月])
主任看護師:ガートルード・ブランケ(Gertrude Blanke[1940年4月-])
:ヘルマン・ヴェンツェル(Hermann Wentzl[1940年4月-])
看護師
:ヨハン・バウムガートナー(Johann Baumgartner)
:カール・ハラー(Karl Harrer)
:レオポルド・ラング(Leopold Lang)
:カール・シュトゥーブル(Karl Steubel【R】)
:アントン・シュロットマイヤー(Anton Schrottmayer,[1940年10月-])
:アンナ・グリッセンベルガー(Anna Griessenberger)
:フランツ・ギンドル(Franz Gindl)
:ハーミン・グルーバー(Hermine Gruber)
:マルガレーテ・ハイダー(Margarethe Haider)
:マリア・ハンメルスベック(aria Hammelsböck)
:マリア・ランバート(Maria Lambert)
:ヘルマン・メルタ(Hermann Merta)
:マリア・ラーブ(Maria Raab)
:マリア・ヴィットマン(Maria Wittmann)
:ヘルマン・ヴェンツル(Hermann Wentzel)
運転手
:フランツ・マイヤーフーバー(Franz Mayrhuber)
:ヨハン・ローターラー(Johann Lothaller )
:アントン・ゲッツィンガー(Anton Getzinger)
:フランツ・ヘドル(Franz Hödl)
:ヨハン・アンジンガー(Johann Anzinger)
管理部
:クリスチャン・ワース(Christian Wirth【R】[])
:フランツ・ライヒライター(Franz Reichleitner【R】[])スタングルの代理
:フランツ・スタングル(Franz Stangl【R】[])ワースの後任
秘書:イルマガード・ラドヴィッヒ(Irmgard Ladwig)
:イルマガード・シュワブ(Irmgard Schwab)
火葬場とガス室の監督:エルウィン・ランバート(Erwin Lambert【R】)
火葬員:ビンゼンツ・ノヘル(Vinzenz Nohel)
火葬員:ヨゼフ・バラスター(Josef Vallaster【R】)
:グスタフ・ワグナー(Gustav Wagner【R】:ハルトハイム城の行政官)
:フリードリッヒ・フォルルマン(Friedrich Vollmann[-1940年12月])
:ハンス=ハインリッヒ・レンツ(Hans-Heinrich Lenz[1940年12月-1944年末])
:アーサー・ウォルター(Arthur Walther[1942年初頭-1944年後半])
:カール・スチューベル(Karl Steubel)
:アントン・シュロットマイヤー(Anton Schrottmayer)
:ポール・ブレドウ(Paul Bredow【R】[])
事務員:ヘレネ・ヒンターシュタイナー(Helene Hintersteiner)
1940年
5月 633人
6月 982人
7月 1.449人
8月 1.740人
9月 1.123人
10月 1.400人
11月 1.396人
12月 947人
1941年
1月 943人
2月 1178人
3月 974人
4月 1.123人
5月 1.106人
6月 1.364人
7月 735人
8月 1.176人
合計 18.269人

【Tötungsanstalt Pirna-Sonnenstein】
Sonnenstein(D) Pirna Sachsen
4つの家で構成されるこの複合施設
医師、看護師、運転手、介護者、会社員、警察の合計100人の従業員がいた
遺体はベルリンのKori社によって供給された2つのコークス炉で火葬
1942年夏 解散し、ガス室と火葬場は解体されました
1942年末 アドルフヒトラー学校(Adolf-Hitler-Schule Gau Sachsen)、Reich Administration School、国防軍病院として使。

ザクセン内務大臣カール・フリッチュ(Karl Fritsch)
「ザクセン内務省人々のケア」(Abteilung „Volkspflege“)部門部長 アルフレッド・ファーンホルツ(Alfred Fernholz)
医療部長
:ホルスト・シューマン(Horst Schumann)
医師
:カート・シュマレンバッハ(Curt Schmalenbach”Dr.Palm”[1940年秋-11月Zentraldienststelle-T4連絡官])
:クルト・ボルム(Kurt Borm”Dr.Storm”[1940年12月-1941年3月])
:クラウス・エンドルワイト(Klaus Endruweit”Dr.Bader”[1940年11月22日-])
:エヴァルト・ウォルトマン(Ewald Wortmann”Dr.Friede”[1940年5月12日-1940年10月31日])

Tötungsanstalt Sonnensteinの従業員の約3分の1がAktion Reinhardtに参加。
ガス処刑:カート・ボレンダー(Kurt Bolender【R】)
:カート・フランツ(Kurt Franz【R】)
:ハインリッヒ・グレイ(Heinrich Gley【R】)
運転手:ローレンツ・ハッケンホルト(Lorenz Hackenholt【R】)
:ゴットリーブ・ヘリング(Gottlieb Hering【R】)
:オットー・ホーン(Otto Horn【R】)
:エルウィン・ランバート(Erwin Lambert【R】)
:ハインリッヒ・マット(Heinrich Matthes【R】)
:グスタフ・ミュンツベルガー(Gustav Münzberger【R】)
:ウォルター・ノヴァク(Walter Nowak【R】)
:ヨーゼフ・オーバーハウザー(Josef Oberhauser【R】)
:ポール・ロスト(Paul Rost【R】)
:フリードリッヒ・タウシャー(Friedrich Tauscher【R】)
:ヘルベルト・フロス(Herbert Floss【R】)
:ハインリッヒ・マティス(Heinrich Matthes【R】)

中間ステーション(Zwischenanstalten)
●アルンスドルフ(Saxon Hospital Arnsdorf)2,600人以上の患者が経由
●グロスシュヴァイドニッツ(Sächsisches Krankenhaus Großschweidnitz)アルフレッド・シュルツ([1939年5月1日-])
1943年12月から、アーサー・ミットタグ(Arthur Mittag[1940年10月])の指揮の下、州立機関にいわゆる「子供部」があり約800人の子供を殺害。
1943年半ばから1944年9月だけで、グロスシュヴァイドニッツで約2,400人の患者が死亡した。1939年から1945年までに合計5000人以上が殺害された。
●ヴァルトハイム(Justizvollzugsanstalt Waldheim)ヴァルトハイム医療施設と介護施設所長:ゲルハルト・ウィッシャー(Gerhard Wischer[1938年-1945年])アルフレッド・ファーンホルツ(Alfred Fernholz)の推薦で参加。ビタミン研究者Arthur Scheunertの提案、法務大臣の承認を得てビタミンA含まない食事を与える人体実験を行い、6か月後には視覚機能と血液組成に重大な健康障害が生じた。その結果1941年1月マーガリンの一般的なビタミン化の準備に役立ちました。
●ザシャドラス(Zschadraß/ZschadraßにColditz Castle[1940年6月-1941年9月])施設長:マックス・アルウィン・リーバーズ(Max Alwin Liebers)。3,400人以上の患者が移送。1942年閉鎖後、ハインベルク肺保護区(Lungenheilstätte Hainberg)となる。
1940年
6月 10人
7月 116人
8月 1221人
9月 1150人
10月 801人
11月 947人
12月 698人
1941年
1月 365人
2月 608人
3月 760人
4月 273人
5月 1330人
6月 1297人
7月 2537人
8月 607人
合計 13.720人

【Tötungsanstalt Hadamar】
Hadamar(E) Hadamar bei Limburg Hessen
[941年1月31日-1942年7月]
10,072人の男性、女性、子供を殺害
:フリッツ・ベルノタ(Fritz Bernotat)のスタッフ約25人勤務
関連大管区担当
:ヘッセン=ナッサウ大管区ガウライター ヤコブ・スプレンジャー(Jakob Sprenger)
:ヘッセン=ナッサウ大管区参事官 フリッツ・ベルノタ(Fritz Bernotat)
医療部長
:エルンスト・バウムハルト(Ernst Baumhard”Dr.Moos”[1941年1月-1941年6月])
:フリードリッヒ・バーナー(Friedrich Berner”Dr.Barth”[1941年6月-1941年8月])
:カート・シュマレンバッハ(Curt Schmalenbach”Dr.Palm”[1941年12月-1942年7月])
:アドルフ・ウォールマン(Adolf Wahlmann[1942年8月5日-1945年4月])
医師部次長
:ギュンター・ヘンネッケ(Günther Hennecke”Dr.Fleck”[1941年1月13日-1941年6月])
:ボド・ゴルガス(Bodo Gorgaß”Dr.Kramer”[1941年6月18日-1941年8月])
看護師長
:イルマガルド・フーバー(Irmgard Huber)
介護者
:ハインリッヒ・ルオフ(Heinrich Ruoff)
:カール・ウィリグ(Karl Willig)
管理部
警備:カール・フレンツェル(Karl Frenzel【R】)
警備:フランツ・ウルフ(SS-Oberscharführer Franz Wolf【R】)
写真家:フランツ・スチョメル(Franz Suchomel【R】)
キッチン:ヨーゼフ・ヒルトライター(Josef Hirtreiter【R】[1940年10月-1942年夏])
運転手:アウグスト・ミーテ(August Miete【R】[1940年5月-1941年10月])

中間ステーション(Zwischenanstalten)
●ハーボーン州立医療センター(Landes-Heilanstalt Herbor Dillkreis Hessen-Nassau Dillkreis Herborn)
●ヴァイルミュンスター州立医療センター(Landes-Heilanstalt Weilmünster Hessen-Nassau Oberlahnkreis Weilmünster)
●アイヒベルグ州立医療および老人ホーム(Landes-Heil- und Pflegeanstalt Eichberg Hessen-Nassau Rheingaukreis Eltville am Rhein)
●私立健康教育機関カルメンホフ(Privat-Heilerziehungsanstalt Kalmenhof Hessen-Nassau Untertaunuskreis Idstein)
●シェールン医学教育および老人ホーム(Heilerziehungs- und Pflegeanstalt Scheuern Hessen-Nassau Unterlahnkreis Nassau)
●PHPガルクハウゼン(PHP Galkhausen Rheinprovinz Rhein-Wupper-Kreis Galkhausen, Langenfeld (Rheinland))
●PHPアンダーナッハ(PHP Andernach Rheinprovinz Landkreis Mayen Andernach Wiesloch)
●PLKヴィースロッホ(PLK Wiesloch Baden Landkreis Heidelberg Wiesloch)
●ワインズバーグ医療センター(Heilanstalt Weinsberg Württemberg Landkreis Heilbronn Weinsberg)

フリッツ・ベルノタ(Fritz Bernotat)は1941年にアイヒベルク(Eichberg)とカルメンホフ(Kalmenhof)に「子ども部門(Kinderfachabteilungen)」を設置することにより、子どもの「安楽死」にも貢献した。
1942年7月31日にナッソー地区協会ヴィースバーデンに返還され、1942年8月1日から州立医療センターが再び運営されました。国会議員フリッツ・ベルノタット(Fritz Bernotat)の要請で、上級医師アドルフ・ウォールマン(Oberarzt Adolf Wahlmann)が医療管理を引き継ぎ、アルフォンス・クライン(Leitung und Landessekretär Alfons Klein)国務長官が事務を引き継いだ。
1942年8月13日から1945年3月24日までに、障害または精神疾患を持つ4,817人がT4輸送機関であるGekratによってハダマールに輸送され、4,422人が死亡。

1941年8月24日に「安楽死」プログラムのフェーズ 1aが終了する。
※【R】Aktion Reinhardt参加者