Konzentrationslager

1933年2月6日プロイセン州内相ゲーリングはプロイセン州警察政治警察部門1A課課長にルドルフ・ディールス(Rudolf Diels)任命

Rudolf Diels (* 16. Dezember 1900 in Berghausen; † 18. November 1957 in Katzenelnbogen)

Hermann Wilhelm Göring (* 12. Januar 1893 in Rosenheim; † 15. Oktober 1946 in Nürnberg)

Marinus van der Lubbe (* 13. Januar 1909 in Leiden, Niederlande; † 10. Januar 1934 in Leipzig)

1933年2月27日、ドイツ国会議事堂放火事件が発生するとナチ党が犯人に仕立て上げたマリヌス・ファン・デア・ルッベの尋問。1933年2月28日、4,000人の共産主義者を逮捕。
1933年4月26日、プリンツ・アルブレヒト街8番地の接収したホテルに移転となり、後に「ゲシュタポ」と略称される「プロイセン州秘密警察局」(Preussisches Geheimes Staatspolizeiamt) が組織され、ディールスはゲシュタポ局長 (Leiter der Geheimen Staatspolizeiamt) に任命された。
補助警察である突撃隊や親衛隊によって逮捕された者は、彼らが独自に作った「私設強制収容所」に収容された。私設収容所はベルリンを中心に40から60あったと言われる。
1933年8月、ゲーリングは無法が目立つ突撃隊をプロイセン州の補助警察から排除する。
バイエルン州ミュンヘン警察長官ハインリヒ・ヒムラー(親衛隊全国指導者)はプロイセン州の警察も掌握する機会を狙い、ヒンデンブルク大統領からゲーリングに圧力をかる。

Heinrich Luitpold Himmler (* 7. Oktober 1900 in München; † 23. Mai 1945 in Lüneburg)

Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg (* 2. Oktober 1847 in Posen; † 2. August 1934 auf Gut Neudeck, Ostpreußen)

1933年9月末ゲーリングはディールスのゲシュタポ局長の任を解き、ベルリン警察の副長官に左遷、10月末にはゲーリングは再度ゲシュタポ局長に就任した。
10月には保護拘禁で逮捕した者は原則として州公認の強制収容所にのみ収容することを定めた。
オラニエンブルクのオラニエンブルク強制収容所
オランダ国境に近いエムスラント(Emsland)のエステルヴェーゲン強制収容所(KZ Esterwegen)
オスナブリュックのパーペンブルク強制収容所(Papenburg)
メルゼブルクのリヒテンブルク強制収容所(KZ Lichtenburg)
フランクフルト・アン・デア・オーダーのゾネンブルク強制収容所(KZ Sonnenburg)
ポツダムのブランデンブルク強制収容所(KZ Brandenburg)
6つのみを州公認の強制収容所と定めた。
1934年3月には全ての私設収容所は解散。

親衛隊と対立を深めたくないゲーリングは、親衛隊の私設収容所コロンビアハウス強制収容所(KZ Columbiahaus)には手をつけず、この収容所は1936年まで存続した。

1933年3月20日にバイエルン州警察長官ハインリヒ・ヒムラーは記者会見を行い、ダッハウ強制収容所の設置を発表。22日にミュンヘン郊外の第一次世界大戦中に火薬工場として使われていた建物と土地を使ってダッハウ強制収容所を設置。ヒルマール・ヴェケルレ(Hilmar Wäckerle)SS中佐が初代所長に就任。3月23日に最初の収容者として60人の政治犯が送られてきた。1933年6月にダッハウ収容所第2代所長として後に全強制収容所総監となるテオドール・アイケ親衛隊上級大佐(当時)を任じている。
1933年10月1日アイケは収容者への罰則を体系化するために収容所規則を制定
また囚人管理を体系化し、1ブロック250人、SS軍曹のブロック指導者を設置。ブロック指導者の上にSS曹長の連絡指導者を置き、管理させた。収容所警備隊「親衛隊髑髏部隊」 (SS-TV) を編成。

Hilmar Wäckerle (* 24. November 1899 in Forchheim; † 2. Juli 1941 östlich von Lemberg)

Theodor Eicke (* 17. Oktober 1892 in Hampont, Lothringen; † 26. Februar 1943 bei Michailowka, südlich von Charkow)

Reinhard Tristan Eugen Heydrich (* 7. März 1904 in Halle an der Saale; † 4. Juni 1942 in Prag)

ゲーリングは突撃隊に対抗するため親衛隊と和解しゲシュタポの指揮権はハインリヒ・ヒムラーに譲られた。
1934年4月20日、事実上ゲーリングはゲシュタポの指揮権をヒムラーに譲り、ゲシュタポ局長より上位の「ゲシュタポ監査官及び長官代理」(Inspekteur und stellvertretender Chef der Geheimen Staatspolizeiamts) に任じた。ヒムラーは就任後、直ちにディールスをゲシュタポ局長から解任し、ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊上級大佐を後任に据えた。

【親衛隊による強制収容所の運営】
長いナイフの夜事件(1934年6月30日から7月初め)以降、全強制収容所の運営権が正式に親衛隊の所管となることが決まった。
1934年7月4日ヒムラーは早速ダッハウ強制収容所の所長テオドール・アイケを全強制収容所監督官(Inspekteur der Konzentrationslager)に任じ、全ての強制収容所の運営をゆだねた。

アイケはダッハウのSS警備部隊を
「オーバーバイエルン」(ダッハウ強制収容所)、
「オストフリースラント」(エスターヴェーゲン強制収容所)、
「エルベ」(リヒテンブルク強制収容所)、
「ザクセン」(ザクセンハウゼン強制収容所)、
「ブランデンブルク」(オラニエンブルク強制収容所とコロンビアハウス強制収容所)、
「ハンザ」(フールスビュッテル強制収容所)の6小隊に分けて各強制収容所に派遣し、警備にあたらせた。1935年12月の時点でその人員数は2500名ほどだった。

アイケはダッハウで組織した強制収容所警備部隊を拡張し、各強制収容所に配置した。この警備部隊は1936年3月29日に「親衛隊髑髏部隊」(SS-Totenkopfverbände)の名称が与えられ、アイケは親衛隊髑髏部隊総監(Generalinspekteur der SS-Totenkopfverbände)の肩書も得た。
親衛隊髑髏部隊は親衛隊本部(SS-HA)に所属する。
1936年にザクセンハウゼン強制収容所創設
フールスビュッテル強制収容所が廃されたため、五大隊編成となり、大隊番号を付けられることとなった。
第1SS髑髏大隊「オーバーバイエルン」(ダッハウ強制収容所)
第2SS髑髏大隊「オストフリースラント」(エスターヴェーゲン強制収容所)
第3SS髑髏大隊「エルベ」(リヒテンブルク強制収容所)
第4SS髑髏大隊「ザクセン」(ザクセンハウゼン強制収容所)
第5SS髑髏大隊「ブランデンブルク」(オラニエンブルク強制収容所とコロンビアハウス強制収容所)
1937年にブーヘンヴァルト強制収容所創設
1937年7月1日、強制収容所の統廃合に伴い、髑髏部隊は再編されて3つの連隊で編成。
第1SS髑髏連隊「オーバーバイエルン」(ダッハウ強制収容所)
第2SS髑髏連隊「ブランデンブルク」(ザクセンハウゼン強制収容所)
第3SS髑髏連隊「テューリンゲン」(ブーヘンヴァルト強制収容所)
1937年には総計1万人の囚人に対して4800人の髑髏部隊員がいた。

1938年4月、マウトハウゼン強制収容所に駐屯するべく4番目の連隊、第4SS髑髏連隊「オストマルク」が創設

髑髏連隊はその管轄の強制収容所に監視隊(Wachmannshaften)を設置。
監視隊は収容所の警備のみの担当であり、収容所職員とは区別されていた。収容所所長には親衛隊髑髏部隊員から成る監視隊への指揮権はなかった。収容所囚人の管理を直接に行う収容所の役職であるブロック指導者(Blockführer)と作業班指導者(Kommandoführer)に親衛隊髑髏部隊の隊員をもって充てることになっていたので、髑髏部隊は囚人の直接的管理にも当たっていた。

全強制収容所監督官(Inspekteur der Konzentrationslager)

1939年11月から1940年8月までリヒャルト・グリュックス、
1940年8月から1942年3月16日にかけてアウグスト・ハイスマイヤー、

Richard Glücks (* 22. April 1889 in Odenkirchen; † 10. Mai 1945 in Flensburg)

August Heißmeyer (* 11. Januar 1897 in Gellersen; † 16. Januar 1979 in Schwäbisch Hall)

親衛隊本部から武装親衛隊を統括する組織:親衛隊作戦本部(SS-Führungshauptamt、略称SS-FHA)が切り離されると強制収容所監督官府も作戦本部の指揮下に移行。
1942年3月16日の命令で親衛隊作戦本部の管理下にあった強制収容所総監府が、親衛隊経済管理本部の管轄下に移され、強制収容所総監リヒャルト・グリュックスは親衛隊経済管理本部D部集団長に就任
D部集団、強制収容所 : リヒャルト・グリュックス親衛隊中将
DI部、中央事務所 : アルトゥール・リーベヘンシェル親衛隊中佐、ルドルフ・ヘス親衛隊中佐
DII部、労働配置 : ゲルハルト・マウラー(de:Gerhard Maurer)親衛隊大佐
DIII部、保健及び収容所衛生 : エンノ・ロリンク(de:Enno Lolling)親衛隊大佐
DVI部、収容所管理 : アントン・カイントル親衛隊中佐、ヴィルヘルム・ブルガー(de:Wilhelm Burger)親衛隊大佐

Arthur Liebehenschel (* 25. November 1901 in Posen; † 24. Januar 1948 in Krakau)

Rudolf Franz Ferdinand Höß (* 25. November 1901[1] in Baden-Baden; † 16. April 1947 in Auschwitz)

Gerhard Maurer (* 9. Dezember 1907 in Halle (Saale); † 2. April 1953 in Krakau)

Enno Lolling (* 19. Juli 1888 in Köln; † 27. Mai 1945 in Flensburg)

Anton Kaindl (* 14. Juli 1902 in München;[1] † 31. August 1948[2] in Workuta)