香港の戦い

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香港の戦い(Battle of Hong Kong, 1941年12月8日 – 12月25日)

日本側作戦名は「C作戦」。
第23軍を1941年(昭和16年)6月28日に新設 総司令官酒井隆中将
□第38師団 師団長佐野忠義中将(1941年(昭和16年)11月6日 -) 約15000名
歩兵第228連隊(名古屋)
  第3大隊第10中隊長若林東一中尉
歩兵第229連隊(岐阜)
歩兵第230連隊(静岡)連隊長東海林俊成(1941年4月1日-)
   第3大隊(岐阜)
□第1砲兵隊 指揮官北島驥子雄中将
 重砲兵第1連隊を基幹とする(24センチ榴弾砲8門、15センチ加農砲16門、15センチ榴弾砲6門、15センチ臼砲12門)
 独立重砲兵第2大隊および第3大隊の16門(八九式十五糎加農砲)を使用。
□第51師団歩兵第66連隊 連隊長荒木勝利(1941年7月28日-)基幹の荒木支隊
□飛行第45戦隊
□第1飛行集団の一部

支那方面艦隊
第2遣支艦隊(1941年12月10日時の編制)司令官新見政一中将 参謀長安場保雄少将
附属:広東方面特別根拠地隊・厦門方面特別根拠地隊
□第15戦隊:軽巡洋艦【五十鈴】艦長浦孝一大佐 砲艦【嵯峨】艦長小林一中佐 砲艦【橋立】艦長山代勝守中佐
□水雷艇【鵯】艇長山崎仁太郎大尉 水雷艇【鵲】艇長犬塚家孝大尉
□第4掃海隊

駆逐艦部隊

 
香港総督サー・マーク・アイチソン・ヤング
1940年11月18日
航空元帥ロバート・ポッファム大将の統率下にイギリス極東総司令部が設置され、香港駐屯軍もその指揮下に入る。
1941年9月10日、マーク・ヤング(Mark Aitchison Young)が香港総督及び全軍総指揮官として着任。

香港駐屯軍 – 総司令官:クリストファー・マルトビイ(Christopher Maltby)少将(総兵力 13,000名)
陸軍
香港歩兵旅団 – 旅団長:C.ワリス准将
ロイヤル・スコッツ連隊第2大隊(イギリス本国軍)
ミドルセックス連隊第1大隊(イギリス本国軍)
ラージプト第7連隊第5大隊(英印軍)
パンジャブ第14連隊第2大隊(英印軍)
カナダ旅団 – 旅団長:J.K.ロウソン准将
ロイヤル・ライフル連隊第1大隊、ウィニペグ擲弾兵連隊第2大隊
ロイヤル砲兵団 – 砲兵団長:マックロード准将
第8沿岸砲兵連隊
第12沿岸砲兵連隊他
海岸砲29門(高射砲は不足していた)
香港義勇軍 – 司令官:H.B.ローズ大佐、現地イギリス人、ポルトガル人、香港人からなる義勇軍(兵力 1,720名)
海軍 – 司令官:A.C.コリンソン(Commodore A.C. Collinson)代将
駆逐艦1隻
砲艦4隻(兵力 780名)
空軍 – 啓徳飛行場 空軍機と義勇軍使用の民間機あわせて12機が炎上、2機が大破し全飛行機を失う
作戦機5機(ヴィッカーズ ヴィルドビースト 3機、スーパーマリン ウォーラス 2機)(兵力 100名)

降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた「ザ・ペニンシュラ香港」の3階で行われた。

香港は香港島と九龍半島の租借地からなっていて要塞となっていた。約150ヵ所の堅固な拠点を保有すると言われていたが拠点数や装備は予想の4割程度だった。
九龍半島の要塞地帯ジン・ドリンカーズ・ライン
12月2日、仏山、三水付近に展開していた第38師団ほかは英支国境線に夜間のみ前進開始、先遣隊の歩兵第229連隊、第230連隊、山砲兵第38連隊基幹は英支国境に展開していた。
12月8日、早朝進攻命令、陸軍飛行隊啓徳飛行場攻撃、第2遣艦隊海上封鎖、陸軍先遣隊深圳東方地区突破、
12月9日、1030時酒井中将攻撃準備に関する部署を命令、
□第38師団は中国本土の新界地区からイギリス軍を攻撃、
□第230連隊はジュビリー貯水池、
□第228連隊は城門要塞、
□第229連隊は沙田峠を目指し主防衛線を突破下令

第228連隊第3大隊第10中隊長若林東一中尉は第10中隊と城門貯水池南方的陣地標高255高地を偵察中、敵陣兵力配備が手薄であると判断し、夜敵のトーチカ陣地に突入奪取してしまった。255高地>>341高地>>366高地と256高地
12月11日、第230連隊は青衣島占領
12月12日、第229連隊は啓徳飛行場占領、イギリス軍を香港島へ撤退させる。
日本軍の戦死22名、戦傷121名。イギリス軍は遺棄死体165、捕虜49名
12月13日、第23軍は軍使を派遣し降伏勧告を行うがヤング総督拒否、日本軍は香港に砲爆撃開始、
12月14日、九龍半島の掃蕩完了
12月15日、第一砲兵隊は九龍半島に対面している海岸要塞を一斉に砲撃、3日間で2000発を撃ち込んだ。
12月16日、第11航空艦隊第21航空戦隊陸攻45機による香港空爆
12月18日、第23軍は再び降伏勧告を行ったがイギリス軍降伏拒否した。
2100時第38師団は兵力を2分して海峡を渡り香港島に上陸
□鯉魚門方面から同島北東部へ上陸、ニコルソン山の要塞(日本軍部隊は600名の死傷者)、山麓の香港ホテル、を攻撃
□赤柱半島(守備1500名、海岸砲台や高射砲陣地)を二個連隊で攻略したが、どうしても陥落させる事は出来なかった。
12月19、20日、戦闘は混戦状態
12月21日、日本軍は敵を各処で撃破、ニコルソン山貯水池給水施設占領
12月25日、(ブラッククリスマス)1700時最後の島西部の陣地で抵抗していたイギリス軍降伏

香港島内における戦いで、日本軍は戦死683名、戦傷1,413名を出した。イギリス軍の戦死は1,555名、捕虜は戦闘間1,452名、戦闘後9,495名(内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。)であった。