スラバヤ沖海戦

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スラバヤ沖海戦 1942年(昭和17年)2月27日から3月1日

1942年(昭和17年)2月27日、スラバヤ港沖北東60浬で陸軍今村兵団と海軍陸戦隊が搭乗する輸送船50隻を護衛中、連合軍艦隊と遭遇する。これがスラバヤ沖海戦の始まりだった。

第三艦隊司令長官(蘭印部隊指揮官)高橋伊望中将
第五戦隊 司令官:高木武雄少将
重巡洋艦/ 那智 艦長:清田孝彦大佐
羽黒 艦長:森友一大佐
第七駆逐隊第一小隊(第二水雷戦隊臨時編入)
駆逐艦/ 潮 艦長:上杉義男少佐
漣 艦長:上井宏少佐
第二十四駆逐隊小隊(第二水雷戦隊臨時編入)
駆逐艦/ 山風 艦長:浜中脩一中佐 (エクセターの生存者67名を救助)
江風 艦長:若林一雄少佐 (ジャワの生存者37名を救助)
第二水雷戦隊 司令官:田中頼三少将
軽巡洋艦/ 神通(旗艦)艦長:河西虎三 大佐
第十六駆逐隊 司令官:
駆逐艦/ 雪風(司令艦) 艦長:飛田健二郎中佐(漂流中の約40名の連合軍兵士を救助)
時津風 艦長:中原義一郎中佐
初風 艦長:高橋亀四郎中佐
天津風 艦長:原為一中佐
第四水雷戦隊 司令官:西村祥治少将
軽巡洋艦/ 那珂 艦長:田原吉興 大佐
第二駆逐隊 司令官:橘正雄大佐
駆逐艦/ 村雨(司令艦) 艦長:末永直二少佐
五月雨 艦長:松原瀧三郎少佐
春雨 艦長:富田捨造少佐
夕立 艦長:石井汞少佐
第九駆逐隊小隊 司令官:佐藤康夫大佐
駆逐艦/ 朝雲 艦長:岩橋透中佐
峯雲 艦長:鈴木保厚中佐
別働隊(蘭印部隊主隊) 司令官:高橋伊望中将
重巡洋艦/ 足柄 艦長:一宮義之大佐
妙高 艦長:山澄貞次郎 大佐
主隊附属
駆逐艦/ 雷 艦長:工藤俊作中佐
電 艦長:竹内一少佐
曙 艦長:中川実 少佐
第四航空戦隊 司令官:角田覚治少将
空母/ 龍驤 艦長:杉本丑衛大佐
駆逐艦/ 敷波 艦長:岩上次一少佐

連合国軍指揮官:カレル・W・F・M・ドールマン少将

オランダ海軍
軽巡洋艦 デ・ロイテル(Hr. Ms. De Ruyter) 沈没
ジャワ(Hr. Ms. Java) 沈没
駆逐艦 コルテノール 沈没
ヴィテ・デ・ヴィット 2日、空襲によりスラバヤで撃沈
エヴェルトセン 1日、座礁
病院船 オプテンノール 拿捕、天応丸に改名、後の第二氷川丸

イギリス海軍
重巡洋艦 エクセター(HMS Exeter, 68) 沈没
駆逐艦 エレクトラ 沈没
エンカウンター(HMS Encounter, H10) 沈没
ジュピター(HMS Jupiter, F85) 沈没

アメリカ海軍第5任務部隊 司令官:A・H・ルークス海軍大佐
重巡洋艦 ヒューストン(USS Houston, CL/CA-30)艦長A・H・ルークス海軍大佐 バタビア離脱1日撃沈
駆逐艦 第58駆逐隊司令官T・H・ビンフォード中佐
ジョン・D・エドワーズ 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ポール・ジョーンズ 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ジョン・D・フォード 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
アルデン 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ポープ(USS Pope, DD-225)機関故障で残留、後にエクセターの護衛 沈没

オーストラリア海軍
軽巡洋艦 パース(HMAS Perth, D29) ウォーラー艦長 バタビア離脱1日沈没

3月1日、4隻(那智、羽黒、山風、江風)は脱出を図るイギリスの重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68)、駆逐艦2隻(ポープ、エンカウンター)と遭遇。 重巡2隻(妙高足柄)、駆逐艦2隻()および空母龍驤艦載機と共同で連合国軍艦艇3隻を撃沈した。 同戦闘で「山風」はエクセターに対し魚雷2本を発射、また敵軍の魚雷1本が艦底を通過したと報告している。各艦は弾薬をほとんど撃ち尽くしていた。 残燃料が乏しい中、「山風」はエクセターの生存者67名を救助。「江風」が救助していた蘭軽巡ジャワ(HNLMS Java)の生存者37名も「山風」に収容された。 また、山風と共に英艦隊と交戦した第6駆逐隊(《駆逐艦長工藤俊作少佐》、《駆逐艦長竹内一少佐》)も、多くの英国軍艦の乗員を救出した。「山風」は江風達と分離してマカッサルへ向かった。 3月3日と5日、24駆(山風、江風)はそれぞれ第五戦隊の指揮下を離れた。

3月1日午前2時、第五戦隊部隊は哨戒中に蘭軽巡ジャワ(28日夜間戦闘で沈没)の生存者を発見、37名が「江風」に収容された さらに昼間の戦闘で、日本艦隊は重巡洋艦エクセター、駆逐艦2隻(エンカウンター、ポープ)を撃沈した。弾薬の消耗著しい第五戦隊(那智、羽黒、山風、江風)は増援の別働隊(足柄、妙高、)および空母龍驤の艦載機と協力し、3隻を撃沈した。3月1日の戦闘で「江風」はエクセターに対し魚雷4本を発射、燃料も不足していた。 戦闘後、「山風」はエクセターの生存者67名を救助し[54]、第五戦隊が第二艦隊や第三艦隊に指示を仰いだ結果、捕虜を全員山風に集めての回航を下令された。 同艦は江風以下第五戦隊と分離してマカッサルへ向かった。3月5日、「江風」は第五戦隊の指揮下を離れて原隊に復帰し、重巡2隻(那智、羽黒)と分離した。

ジャワ (Hr. Ms. Java) は、オランダ海軍の軽巡洋艦。3月1日、哨戒中の第五戦隊(那智、足柄)および駆逐艦山風、江風は漂流するジャワの生存者を発見、江風は37名を救助した。

スラバヤ沖海戦で連合軍艦隊は大きな痛手を蒙り、残党は散り散りとなった。残党の一部、イギリス重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68) と駆逐艦エンカウンター (HMS Encounter, H10) はスラバヤに逃げ込む。この2隻にポープが加わり、2月28日19時にスラバヤを出港してセイロン島に向かう。前述のように、ポープは魚雷を持っていたものの機関不調で2月27日から28日にかけての一連の海戦に参加しておらず、魚雷を使い切って逃げの一途しかなかった他のアメリカ駆逐艦とは違って護衛役となった。3隻は、予定では3月1日夜にスンダ海峡を通過することになっていたが、7時30分に早くも重巡洋艦那智羽黒および駆逐艦からなる日本艦隊を発見し、いったん避退するも攻撃されなかったことにより再度西進する。しかしながら、昼前になり別の強力な日本艦隊が出現したため3隻は応戦しながら逃亡を開始する。エクセターとエンカウンターは必死の反撃もかなわず相前後して沈没していったが、ポープはスコールに逃げ込んで一時の安息を得た。そのころ、バタヴィア方面の味方部隊の支援を命じられていた空母龍驤は、エクセター以下3隻の発見の報を受けて九七式艦攻6機を発進させていた。6機はエクセターの撃沈には間に合わなかったが、スコールから出てきたポープを発見して緩降下爆撃を開始する。ポープも右舷前方に九七式艦攻を発見して応戦を開始するが、艦後部の3インチ砲は75発撃ったところで故障を起こし、射撃不能となってしまった。6機の九七式艦攻は1機あたり250キロ爆弾1発と60キロ爆弾4発を搭載しており、60キロ爆弾を先に投下してから250キロ爆弾で止めを刺そうと目論んでいた。命中弾こそ得られなかったものの、1発がポープの艦尾左舷側に至近弾となり、この影響で推進軸が損傷して振動が甚だしくなって左舷主機が使用不能となった。ここにいたって艦の維持は難しくなり、総員退艦が令されて自沈措置が取られ、乗組員は脱出に移った。海上に漂うのみとなったポープに止めを刺したのは重巡洋艦足柄妙高、駆逐艦およびであり、集中砲火を受け間もなく沈没していった。ポープの乗組員のうち151名は雷に救助された。ポープは1942年5月8日に除籍された。

バタビアからスンダ海峡を経由してチラチャップへ向かおうとスンダ海峡へ達した1942年3月1日午前中、オランダの病院船オプテンノールを捜索していた日本海軍の駆逐艦曙と遭遇、砲撃戦となった。続いて偵察機に誘導された重巡洋艦2隻(第五戦隊高木武雄少将:那智、羽黒)、駆逐艦2隻(山風、江風)が出現、弾薬の不足していた第五戦隊は第三艦隊(司令長官高橋伊望中将:旗艦足柄)の重巡2隻(足柄、妙高)、駆逐艦の援軍を要請し、第五戦隊と第三艦隊の両者でエクセター、エンカウンター、ポープを挟撃した[6]。砲撃雷撃の集中攻撃を受けたエクセターは右に大きく傾き始め、13時30分に沈没した。さらに日本艦隊の追撃と空母龍驤の艦載機の支援により、エクセターの護衛にあたったエンカウンター (HMS Encounter)、ポープ (USS Pope, DD-225) も撃沈された。3月1日の戦闘で、第三艦隊(足柄、妙高)は20cm砲弾1171発(さらに足柄は12.7cm高角砲14発)、第五戦隊(那智、羽黒)は20cm砲弾288発、雷は12.7cm主砲279発、重巡4隻(那智、羽黒、足柄、妙高)は魚雷合計24本、駆逐艦3隻(雷、山風、江風)は魚雷合計11本を発射した。 なおエクセターの沈没時、妙高偵察機が雷の雷撃とエクセターの被雷・沈没を写真撮影した。この写真は写真週報第215号に掲載された。なお、大本営海軍報道部はエクセターがラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー の仇を討ったと宣伝している。

この日、駆逐艦の天津風が病院船オプテンノール護送のため戦闘海域を航行していた。するとエクセターの生存者多数を発見、第二水雷戦隊旗艦神通に救助を依頼すると漂流者に対し「別に救助船が来る」と英語で知らせ、その場を去った。 その後、エクセターの艦長のO・L・ゴードン大佐を含む798名の連合軍将兵は日本海軍により救助され、天津風の手によってボルネオ島バンジャルマシンに連行されていた病院船オプテンノートに引き渡された。また山風に救助されていたエクセターの乗組員67名は、マカッサルで蘭軽巡ジャワの生存者と共に海軍陸戦隊へ引き渡された。

この救助の時の事を、雷艦長伝令だった佐々木氏は「流石イギリス海軍士官」と思ったといい、次のように回想している。

「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクセター』副長(安全確認のため、艦長よりも先に上がった)、次に『エクセター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。」「当初『雷』は自力で動ける者を先に上げ、重傷者は後回しにしようとしたのですが、彼らは頑として応じませんでした。その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、これと対照的な情景を目にしました」

1942年(昭和17年)2月26日、原艦長の回想によれば天津風はスラバヤ方面でオランダの病院船オプテンノールを臨検し拿捕する。ただしオランダ側の記録では、26日のオプテンノールはスラバヤ港に停泊中であった。 2月27日、天津風以下第二水雷戦隊はスラバヤ沖海戦に参加して砲戦雷撃戦を行うが、第五戦隊(那智、羽黒)、第二水雷戦隊(神通、雪風、時津風、天津風、初風、江風、山風、潮、漣)、第四水雷戦隊(那珂、村雨、五月雨、夕立、春雨、朝雲、峯雲)各艦が発射した酸素魚雷はほとんど自爆してしまった。戦史叢書では『魚雷爆発尖が鋭敏だった事による早爆説』を採っているが、天津風水雷長は疾走中の魚雷同士が衝突して爆発した可能性を指摘している。戦闘後、天津風はオプテンノールをバンジャルマシン基地へ連行した(天津風水雷長の回想では3月9日拿捕)。 これは天津風の独自判断ではなく、第四水雷戦隊・第2駆逐隊(村雨、夕立)が臨検していたオプテンノールへの護送を引き継いだだけである。後日、オプテンノールは日本海軍に編入され特設病院船天応丸(最終的に第二氷川丸)となった。村雨(天津風)によるオプテンノールの臨検・拿捕・抑留そのものは『病院船は戦闘の妨害をしてはならない/重大な事情があり必要なときは病院船を抑留することができる』ため、国際法には違反していないとみられる。

2月28日、スラバヤ沖海戦における負傷兵救助のため航行中、日本の駆逐艦の臨検を受けた。第五戦隊(司令官高木武雄少将、旗艦那智)の記録では、オプテンノールを臨検したのは第四水雷戦隊(四水戦司令官西村祥治少将、旗艦那珂)所属の第2駆逐隊・白露型駆逐艦4番艦夕立となっているが、実際には白露型3番艦村雨(第2駆逐隊)である。 また原為一(当時、天津風駆逐艦長。海軍中佐)の回想では、同艦のオプテンノール臨検はスラバヤ沖海戦前の2月26日となっている。

当時、スラバヤ沖合で行動していた第二水雷戦隊(二水戦司令官田中頼三少将、旗艦神通)の報告によれば、陽炎型駆逐艦7番艦初風と陽炎型9番艦天津風(2隻とも第二水雷戦隊、第16駆逐隊所属)による臨検は2月28日夕方で、オプテンノールを臨検中の村雨(四水戦・第2駆逐隊)を発見後、第16駆逐隊第2小隊(天津風、初風)は一旦引き返す。だが第四水雷戦隊司令官西村祥治少将(那珂)より第二水雷戦隊(神通)に依頼があり、田中(二水戦司令官)は再び天津風を派遣してオプテンノールを抑留させた。天津風側の結論は「指定海域(バウエン島北方海域)に碇泊後、3月1日以後は自由行動を許可す」であった。 日本海軍の命令に、オプテンノールも一旦は従った。

しかし3月1日、オランダ側乗員は「救助活動ができないのならば指定海域にとどまる意味はない」と考え、オーストラリアのパースへ向かおうと航行を再開した。日本側はオプテンノールの行為を「指示を無視して逃亡する行為」と判断し、威嚇爆撃により停船させた。 水上機母艦千歳搭載の零式水上偵察機搭乗員(山崎力義、二飛曹)によれば、『朝方のこのこ戦闘海域に入ってきた病院船』が指定停泊地点から東方に向けて逃走しつつあるのを発見、英文で警告したが反応がなく、針路上に60kg爆弾2発を投下して機銃掃射をおこなったと回想している。 第三艦隊司令長官高橋伊望中将(旗艦足柄)は、指揮下の第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦神通)に対し「天津風をもってオプテンノールを護送せよ」と命じる。 この命令に従い天津風(第16駆逐隊)は同日夜にオプテンノールと再合流、同船をバンジャルマシンへ連行した。なお、病院船に対する臨検や航路指示は交戦国の権利として認められており、重大な事情があり必要があれば抑留することも可能だった。

3月2日夕刻、2隻(天津風、オプテンノール)はバンジャルマシンに到着、本船は同地で敷設艦蒼鷹に引き渡された。 なおスラバヤ沖海戦で沈没した連合軍艦艇生存者は、日本側駆逐艦(雷、電)等に救助されたあと、一部はオプテンノールに集められた。

2月下旬、第五戦隊・第二水雷戦隊・第四水雷戦隊とABDA艦隊の間にスラバヤ沖海戦が生起。同海戦終盤の3月1日、龍驤の攻撃隊(九七艦攻6機)は逃走する米駆逐艦ポープに水平爆撃を実施、ポープを航行不能にさせ46時間続いた海戦に終止符を打った。夕刻には艦攻6機がジャワ島中部セマラン港を爆撃し、1万トン級商船1隻を炎上・擱座させた。3月2日、連合軍哨戒艇を高射砲の水平射撃により撃沈した。

三月一日昼戦

以下の戦いを、連合軍側は第二次ジャワ海海戦と呼称している。日本軍側はスラバヤ沖海戦の一部「スラバヤ沖(第二次)海戦」と分類している。

3月1日午前4時、前述のように輸送船2隻が損害を受けるも、日本軍はクラガン泊地への敵前上陸に無事成功した。同時に航空偵察により、損傷した連合軍艦艇の動きを探っている。この時点で日本軍は、第一護衛隊(第四水雷戦隊)がクラガン泊地外方、第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊)は泊地北東側、第四潜水戦隊旗艦・軽巡鬼怒は泊地北西側、第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)はクラガン北方海面、主隊(足柄、妙高)、第六駆逐隊、曙(第七駆逐隊)は哨戒行動中だった。

同時刻、バウエアン島近海でエクセターは敵らしきものを発見し、これを反転回避する。これは日本軍第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)であった。この時日本軍はエクセターに気づかず、そのまま遠ざかっていった。しばらくしてエクセターは再反転すると西進を始めた。また日本軍別働隊でも、日本軍偵察機が報告した病院船オプテンノール護送のため、曙が艦隊から分離した。曙は『時津風からオプテンノール護送任務を引き継げ』と命じられていたという。

1103分、クラガン泊地沖を哨戒していた第五戦隊部隊4隻は距離28km先にエクセター隊を発見する。既に第五戦隊部隊は残弾が底をつきかけており、已む無く高木少将は蘭印艦隊司令長官高橋伊望中将の重巡2隻(足柄、妙高)に応援を要請すると共に弾着観測機を射出し、敵艦隊に触接させた。エクセターは戦闘を避けるため煙幕を展開しながら北西に転針し、戦域から離脱を図った。1127分、第五戦隊部隊は足柄、妙高の到着を待って追撃を開始した。

午前11時40分、エクセターは前方左、距離31,000mに新たな敵艦を発見した。同時刻、曙はエクセターを病院船オプテンノールと誤認し、停止命令を出した。イギリス軍重巡洋艦は14-18kmで砲撃した。第五戦隊もエクセターが艦首方向に射撃をしていたことを記録している。1140-1144分、曙は『(1140発、曙)敵らしき巡洋艦1、駆逐艦2見ゆ、我より方位120度』『我敵巡と交戦中』と報告し、救援を求める。第三艦隊は曙に対し、敵艦隊を誘致・拘束するよう命じた。

エクセターは曙が水平線の向こうに逃走したことで砲撃を停止した[115]。やがて左舷に新たな日本艦隊が出現、これは高木少将からの連絡を受け、戦場に急行していた高橋中将率いる主隊(足柄、妙高、雷)の別働部隊であった。エンカウンターに乗艦していたサムエル・フォール卿(当時中尉)は、まずイギリス艦隊の右前方に駆逐艦4隻が出現、続いて左前方に最上型重巡洋艦2隻が出現(妙高型重巡洋艦を誤認)、最後に左舷後方に最上型重巡洋艦2隻(これも妙高型の誤認)が出現したと証言している

エクセターは距離23000mで砲撃を開始した。足柄、妙高も応戦すべく、弾着観測のため零式水上偵察機を射出した。足柄、妙高は右砲戦を開始したが、2隻の弾着は非常に悪く、初弾斉射はエクセターから1000m離れ、次斉射は2000m離れた海面に着弾したという。逆にエクセターが足柄を夾叉する光景も見られた。だが、エクセターは数の上で不利であり東方への逃走を試みた。これを援護すべくエンカウンター、ポープが別働隊とエクセターの間に割って入り、1200前後に煙幕を展張した。煙幕の展開は効果的で、那智、羽黒はエクセターを見失う。状況を打破すべく、別働隊は曙、雷がエクセターに対して突撃をかけ、距離12,000mで砲撃を始めた。足柄と妙高はエクセターに酸素魚雷を発射したが、少なくとも魚雷2本が自爆し、全魚雷が命中しなかった。逆に第五戦隊部隊の方向へ魚雷が向かったので、那智、羽黒が回避する場面も見られた

東方への逃走を図るエクセター、エンカウンター、ポープはスコールの中に飛び込んだ。足柄はスコールのため射撃を中止した程である。しかし、エクセターは損傷のため無理をしても23ノットしか出せなかった。一方、日本艦隊は全艦が30kt以上の速力を発揮可能であった。短い嵐が去った時、エンカウンターは右舷9000に駆逐艦隊、エクセターの左舷18000mに”最上型巡洋艦”4隻、右舷後方の水平線上に”那智級巡洋艦”2隻を確認している。英艦隊は包囲されていた。

この絶望的な状況下においてフォール卿は「自分は生来楽天的な性格であったため、何とか日本艦隊の包囲網を抜けて脱出できると信じていました。方位盤の横で即的士官と冗談を言い続けていました。」と語っている

1224分、那智、羽黒が距離25kmでエクセターに対し射撃を開始した。エクセターも反撃し、那智の周辺に水柱が上がる。日本軍は英軍艦隊を包囲し、集中砲撃を浴びせた。午後12時30分、エンカウンターは山風、江風の砲撃により被弾し、舵故障を起こして速度が低下した。さらに那智、羽黒の方向に艦首を向けたため、第五戦隊は魚雷発射と誤認して回避運動を行っている。エンカウンターの士官によれば、主砲弾をほぼ撃ちつくしたところ、砲撃によりオイルポンプが破損して航行不能になったという

1240分頃、第十一航空戦隊(水上機母艦瑞穂)より、エクセター爆撃のため観測機11機を送るという連絡があった。日本艦隊は距離17kmにてエクセターに対し射撃を再開する。同時に魚雷戦を開始し、1250分ごろに那智が4本、羽黒が4本、山風が2本、江風が4本を発射した。すると、日本艦隊とエクセターの間に幅5-6m、高さ70-80mという巨大な水柱があがった

この時、フォール卿の回想では「我々は日本潜水艦の雷撃を避けるためにジグザグ航行をしておりました。(中略)艦隊は変針を繰り返し、33ノットの高速で走り、対潜警戒と回避行動を繰り返しました。さらに、『エンカウンター』は『エクセター』の周りに煙幕展張を行い、日本側の砲撃をそらそうとしました。しかも、日本軍の包囲網から『エクセター』を突破させようとして、『ポープ』と共に日本艦隊に4000ヤードまで接近し、魚雷発射の擬似運動を行いました。この時だけは日本艦隊が大きくループを描いて回避運動を行いました。この時、包囲網に隙間が生じましたが、僅かの間でした。このため、『エクセター』は包囲網から脱出できなかったのです。」となっていた

だが日本軍の魚雷が自爆しても、エクセターの命運は尽きようとしていた。20cm砲弾1発がまたもエクセターの缶室に命中し、火災が発生した。1254分、動力を全て失ったエクセターは航行不能となり、主砲も動かなくなる。エクセターの艦長O・L・ゴードン大佐は総員退去を命じ、乗組員は海に飛び込み始めた。エクセター総員退去と前後して駆逐艦の雷がエクセターに肉薄して魚雷を発射し、一本がエクセターの右舷に命中。続いて足柄、妙高も砲撃を開始した、止めを刺されたエクセターは1330分に右舷に転覆して沈没した。この時、妙高の偵察機がエクセターの被雷・沈没を写真撮影した。この写真は写真週報第215号に掲載された。大本営海軍報道部は、エクセターがラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーの仇を討ったと宣伝している。足柄、シュペー、エレクトラ、エンカウンターはかつてジョージ6世戴冠記念観艦式において一堂に会したことのある艦だった。

沈没寸前のエクセター

なおも日本軍は残ったエンカウンター、ポープの追撃を行った。羽黒、那智に至っては高角砲も用いて駆逐艦2隻を砲撃する。まず舵の故障を起こして速度の低下していたエンカウンターが狙われた。エンカウンターは集中砲火を浴び、完全に戦闘不能となった。この時の事をフォール卿は「『エンカウンター』は、砲弾を撃ち尽くした直後に日本艦隊の砲撃を受けました。その結果、宙に放り投げられる感覚がしました。」と語っている。降伏を進言する士官もいたが、モーガン艦長は交戦旗をおろすなと命令。モーガン艦長を含めて乗組員の殆どが脱出、エンカウンターは戦死者7名と共に1335、沈没した。ポープはスコールに逃げ込み、日本艦隊の追撃から離脱することに成功する。燃料が尽きかけていた第五戦隊部隊は第三艦隊の命令により、午後1時53分にポープの追撃を主隊(足柄、妙高)に任せて戦場を離脱した

ポープはロンボク海峡からオーストラリアに脱出しようと試みるが、妙高偵察機から逃れることができずにいた。ポープはボルネオ島南岸に沿って全速で東進していたが、1505分カリマタ海峡を南下中だった第四航空戦隊(軽空母龍驤)から発進した九七式艦上攻撃機6機(合計250kg爆弾6発、60kg爆弾24発装備)が来襲する。命中はしなかったものの左舷に落ちた至近弾により船腹に大穴が開き、左舷推進軸が捻じ曲がって使用不能となった。爆撃を受けたポープは回避運動により浸水が酷くなり、遂には艦尾が沈下しポープの艦長W・C・プリン中佐は艦を諦めて総員を退去させ、ポープには爆薬を仕掛けて自沈させることにした

全員が退去し終わった直後、主隊(足柄、妙高、雷、電)が接近してきて、航行不能のポープに砲撃を始めた。六斉射目で遂に一弾がポープに命中、1530、ポープは大爆発を起こすと僅か15秒で沈んでいった。また妙高の偵察機は、戦闘詳報とは違った光景を見た。艦隊型駆逐艦が航行不能になったポープに距離1000mまで接近し、魚雷3本を発射。全弾が外れ、その日本軍駆逐艦はさらに2本を発射。「ようやく1本が命中し、ポープ」爆沈したという。漂流したポープの乗員は3日後、1隻の日本駆逐艦に救助された。

 

3月2日午前5時49分、パウエマン島西73海里で浮上航行中のアメリカ潜水艦「パーチ」を発見、「潮」は潜航した「パーチ」に対して爆雷攻撃を実施し,3月3日午前6時52分、前日の爆雷攻撃で損傷し浮上航行中のパーチを再び発見し、攻撃。「パーチ」は沈没し、「潮」はパーチ乗員を救助し捕虜とした。捕虜は同日中にオランダ病院船「オプテンノール」(後日、天応丸/第二氷川丸と改名)に移された

 

捕虜を全員山風に集めての回航を下令された。 同艦は江風以下第五戦隊と分離してボルネオ島マカッサルへ向かった