元帝国海軍中佐工藤俊作

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200812月、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(85歳)が来日した。

戦後、英国外交官を務め、Sir称号を贈られている。

退職後、1996年に自伝『My Lucky Life』を出版。その本の巻頭には、

「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」とある。

フォール卿は、埼玉県川口市に向かい、そこで工藤俊作(くどうしゅんさく)という日本人の墓にお参りをしました。

時は、来日の日から66年ほどさかのぼります。

昭和17年(1942年)3月1日、ジャワ海からの脱出をしようとして出港した英重巡洋艦

「エクゼター」(13,000トン)

「エンカウンター(1,350トン)

の二隻が、日本海軍と交戦して撃沈されました。

そして両艦艦長を含む約450人の英海軍将兵は、漂流の身となりました。

南方の暑い日差しの中で、翌32日の午前10時ごろには、彼らはもはや生存と忍耐の限界に達していました。

そして一部の将兵が自決のための劇薬を服用しようとしていました。

そのとき、たまたま単艦でこの海域を哨戒していた日本の駆逐艦「雷(いかづち)」が、漂流している英国乗組員を発見しました。

「雷(いかづち)」の乗員は220名です。

敵兵とはいえ、その時点ではすでに漂流民です。

しかも漂流している英国兵は450名余います。

平時の感覚としてなら、これを救助するのは、海の男たちにとって当然の責務です。

しかし、平時と戦時では情況が異なりますし、あらゆる価値観は逆転します。

まず第一に、この海域には、英国潜水艦が多数徘徊しています。

救助のためには、艦を停止させなければなりませんが、これは自殺行為です。

なぜなら魚雷の的になるからです。

加えて人数の問題があります。

自艦の船員の倍以上の人数の敵兵を艦内に収容すれば、敵兵によって自艦の船員たちを皆殺しにされた上に、自艦を乗っ取られるおそれもあります。

ですから海上で敵兵を見つければ、それが漂流中であれなんであれ、全員殺すことが戦時の常識です。

酷いことと思われるかもしれませんが、そうしなければ、こちらが殺されてしまうのです。

そして、そうされても仕方がないというために、軍人は軍服を着用します。

それが戦時国際法のルールです。

自国の軍人を救助してもらっているのに、潜水艦が魚雷攻撃をしてくるはずがない、と考えることも平和ボケです。

潜水艦側から見れば、日本艦が英国兵を救助しているところなのか、屠殺している現場なのかの判断はつきません。

ですから英国潜水艦にしてみれば、まずは日本艦を魚雷で轟沈させて危険を取り去った上で、英国兵を救助することになります。

これが戦時の常識行動です。

しかし工藤俊作少佐(当時)は、艦長として、「雷」を停止させました。

そして敵英国水兵の救助を命じました。

そして敵兵を自艦に収容しました。

救助の最中、工藤艦長は、英国兵の体力が限界に達している事に気づきました。

そこで万一の警戒にあたらせていた要員も、すべて救助に投入しました。

一部の英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできませんでした。

竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとするのですが、間に合わずに力尽きて海に沈んで行く者もありました。

工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませ、気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛して艦上に引き上げさせています。

サムエル・フォール卿は次のように回顧しています。

 ***

「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。

ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下した。

私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。何度も自分の腕をつねった。

 ***

さらに艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景がありました。

日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せずに、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労った。

当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた中で、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用したのです。

戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。

実際、そういうケースは多々あるし、だからこそ相当に温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は、艦を長時間停泊させただけでなく、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助したのです。

さらに工藤艦長は、潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助しました。

これらの行動は、戦場の常識ではありえないことです。

こうして、英国兵422名が救助されました。

救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語で次のように訓辞しました。

「貴官らはよく戦った。

 貴官らは本日、

 日本帝国海軍のゲストである。」

そして艦載の食料の殆どを供出して歓待しました。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けました。

 *

工藤俊作艦長は、明治3417日、山形県の生まれです。

工藤俊作艦長は、明治414月に屋代尋常小学校に入学。

明治43415日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。

校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼しました。

工藤俊作艦長はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。

「平民でも海軍仕官になれますか」

担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。

そして工藤艦長は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿し、片道約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学しました。

当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者は、きまって海軍兵学校への受験を志ました。

次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順ででした。

この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できません。

全寮制であるし、学費も極めて高いのです。

経済的にも一般庶民が入学できるような学校ではなかったし、身分上の制限もあったのです。

ところが世界の中で、日本は学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できました。

しかも学費は全額国庫の負担です。

 英国のダートマス

 米国のアナポリス

 日本の江田島

この3つの海軍学校が、世界の三大海軍兵学校とされていたのです。

そして日本だけが、入学に際して身分の制限がありませんでした。

ただし、少し補足すると、陸軍は、当時の日本人であれば、誰もが入学出来たのに対し、海軍は「内地籍」を持っている者に入学が限られました。

つまり海軍は「外地籍」である台湾、朝鮮、満洲、南方の島々の日本人(当時は日本の一部です)は入校を認めていません。

理由は簡単です。

長期間海上で、艦という閉鎖された空間で起居をともにするのです。

何代にも渡る家系が明確で、家系に犯罪歴や疾病歴がなく、親族一同によって身元保証がしっかりされている者でなければ、海軍軍人として採用できなかったからです。

世界中、どんな民族にも善人もいれば悪人もいます。これは必ずいます。

いま善人でも、いざとなったら悪人になってしまう残念な人もいます。

問題は、そのいざという時に、悪行へと走ることを防ぐことができる社会体制が何代にも渡って確立されているかです。

日本は大家族制であり、戸籍もあり、いわば親族一同がそのひとりのための監視役になっています。

セガレが外地で悪事を働けば、戸主も親戚一同も、その責任を世間から追求されます。

ですから戦地で戦う日本軍人は、そこでひとりで戦っているわけではないのです。

その背後には、親戚一同の期待と監督がついていたのです。

これはとても重要な事です。

誰にでも弱い心はある。

それをどこまで封じ込めることができるかが大事だからです。

言い換えれば、個人が個々に独立しており、しかもその個人が名前までコロコロと変えられるような社会環境下では、犯罪を意図して誘発するようなものです。

工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学しました。

その前年の大正8年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任しています。

その鈴木貫太郎は、海軍兵学校校長に着任した大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新しています。

・鉄拳制裁の禁止

・歴史および哲学教育強化

・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけました。

また鈴木貫太郎校長は、明治天皇が、水師営の会見の際に

「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許したことを生徒に語りました。

海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和1511月着任しました。

工藤艦長は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されました。

その工藤艦長の着任のときの訓示です。

「本日より、

 本官は私的制裁を禁止する。

 とくに鉄拳制裁は厳禁する」

乗組員たちは、このような新艦長を、当初「軟弱」ではないかと疑ったそうです。

ところが工藤艦長には決断力があり、官僚化していた上官に媚びへつらうこともまったくない。

しかも工藤艦長は酒豪で、何かにつけて宴会を催しては部下たちと酒を酌み交わしました。

好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、それらは食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもしていたそうです。

工藤艦長は日頃から、士官や先任下士官に、

「兵の失敗はやる気があってのことなのだから決して叱ってはならない」

と繰り返しました。

見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。

このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告するようになりました。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、

「オラが艦長は」と自慢するようになり、

「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていったといいます。

艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していきました。

そして、昭和16128日に大東亜戦争開戦。

開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈しました。

英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助をしています。

このとき日本の航空隊は、「エクスプレス」が救助活動にはいると、一切これを妨害せず、それどころか手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送っています。

さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしていません。

こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させました。

フォール卿は語ります。

 ****

艦長とモーターボートに乗って脱出しました。

その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。

この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。

固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

私たちは救命浮舟に5~6でつかまり、首から上を出していました。

見渡す限り海また海です。

救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。

この時、ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかった。

しかし我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。

一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。

死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。

翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。

仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。

軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していました。

 ***

このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だったのです。

二番見張りと四番見張りからそれぞれ、

「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」

「漂流者400以上」

と次々に報告がはいりました。

工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前10時頃「救助!」と命じました。

フォール卿は語ります。

 ***

午前10時、突然200ヤード(約180M)のところに日本の駆逐艦が現れました。

当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。

そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えました。

 ***

工藤艦長は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけました。

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」

工藤艦長は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらました。

このときの模様を佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想しています。

****

筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。

敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。

五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。

それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。

その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。

この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。

『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。

彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。

艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。

当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。

その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。

****

浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。

甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。

この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込みました。

立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けました。

艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断しました。

「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいました。

一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みしました。

救助されたという安堵も加わって、その消費量は3トンにものぼったそうです。

便意を催す者も続出しました。

工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させています。

工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませました。

艦が走ると風も当たり心地よいからです。

ただし、これで全甲板の主砲は使えなくなりました。

フォール卿が語ります。

****

私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。

『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。

ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。

駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。

水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです。

艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。

われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。

しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。

友情あふれる歓迎でした。

私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。

これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。

私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。

すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.

Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.

I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。

 私は英国海軍を尊敬している。

 今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。

****

「雷」はもはや病院船のような情況となりました。

「雷」の上甲板面積は約1222平方メートル、この約60%は艦橋や主砲等の上部構造物が占めています。

実質的に使えるスペースは、488平方メートル前後です。

そこに、約390人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できません。

するとなんと工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可したのです。  

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将は、この日夕刻4時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下しました。

舷門付近で見送る工藤艦長と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈りました。

高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然としています。

この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、

「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。

 非常に情の深い男であります」

と言って高橋司令長官を笑わせました。

高橋中将は

「それにしても、物凄い光景だ。

 自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、

 このような光景は初めてだ」

とニッコリ笑ったといいます。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されました。

移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにしています。

工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしました。

これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表しました。

「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗した。

とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせました。

副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表しました。

その「雷」は、1944年(昭和19年)413日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。

乗員は全員戦死です。

工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、194411月から体調を崩し、翌年315日に待命となって終戦を迎えています。

戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移りました。

そして、1979年に胃癌のため死去。

生前、工藤艦長は、上記の事実を家族の誰にも、ひとことも話さなかったそうです。

わかる気がします。

なぜなら、「雷」がその後沈没しているのです。

そして「雷」とともに、多くの部下の乗組員たちが犠牲になっているのです。

亡くなった部下たちへの工藤艦長の愛が、工藤艦長の口を閉じさせたのです。

それが日本の武士の心得です。

ですから工藤艦長の家族がこの話を聞いたのはフォール卿からです。

日本は、武士として戦いました。

武士だから、みずから口からは、戦時中の多くを語りませんでした。

だからといって、彼らの名誉ある行動を汚すようなことを許すのは、わたしたち現代を生きる日本人のすべきことではありません。

 工藤俊作は、明治34年1月7日に山形県の高畠町(現在)に生まれ、米沢藩主上杉鷹山によって設立された「興譲館」の流れを汲む、興譲館中学に進む。ここで、兵学校進路指導担当の我妻又次郎(法学者我妻栄の実父)の薫陶を受ける。我妻は、自ら兵学校を受験するも、視力検査で不合格になり進路を変更した。我妻は、英語の授業中、工藤に盛んに英語で質問を浴びせ、真夏でも、工藤が少しでも襟元を緩ませると「服装を乱すな、これでも海軍士官になれるのか」と、容赦なく叱った。工藤は、中学時代からすでに我妻を通して、兵学校教育の訓練を受けていたと言えよう。

 海軍兵学校(51期)に入校した工藤は、3人の校長の指導を受けている。その内の1人が、後の終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎である。鈴木の教育方針は「武士道」であった。昭和20年4月7日、終戦工作を期待され組閣した鈴木は、5日後に米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトが急逝すると、同盟通信を通じてその死を悼む談話を発表した。これを伝え聞いたノーベル文学賞受賞作家トーマス・マンは、鈴木のこの行為を「東洋の騎士道を見よ」と絶賛し賞賛した。

 工藤俊作少佐(当時)は、駆逐艦「雷(いかづち・1680トン)」の艦長としてジャワ沖海戦でその武士道精神を発揮することになる。昭和17年3月、英駆逐艦「エンカウンター」巡洋艦「エクゼター」二隻は、日本海軍に撃沈され、乗員約460人は24時間、漂流を続けていた。工藤は、報告を受けるや否や、戦闘海域にもかかわらず、迷うことなく「救助!」の命令を発し、救難活動中の国際信号旗をマストに掲げた。救助されたサムエル・フォール少尉(当時・後に駐スウェーデン大使)は「英海軍将兵は生存の限界に達し、軍医は自決用の劇薬を全員に配布していた。突然200ヤード(約180㍍)の所に日本の駆逐艦が現れた。当初、私は幻ではないかとと思い、わが目を疑った、そして、『日本人は野蛮人』との先入観から銃撃を受けるのではないかと恐怖を覚えた」後に語っている。

 220人乗りの「雷」は426人を救助した。日本側水兵の差し出す救助の竹竿に掴まりながらも、力つきて水没した英将兵も多数いた。見かねて、命令を無視し、自ら海に飛び込み救助する日本水兵もいた。この情景を見て、工藤は「重傷者は起重機と網でつり上げろ」と命令した。「雷」艦上は英将兵で一杯となったが、日本水兵は重油と汚物にまみれた英将兵の体を貴重なアルコールや真水で洗い、ウェスで拭き取り、着替えも用意した。艦上に天幕を張り、日よけにも気を配った。このため、一番砲は使えなくなった。工藤は、英国海軍士官を前に「諸君は勇敢に戦われた。今や日本海軍のゲストである。英国海軍に敬意を表する」と流暢な英語で語った。

 翌日、英国捕虜426名は、ボルネオ島パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡された。「エクゼター」の副長以下重傷者は、タンカーで移乗された。工藤は、負傷し横たわる「エクゼター」の副長をいたわり、「雷」艦内では当番兵に身の回りの世話をさせた。別れ際、「エクゼター」副長は、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明した。

 工藤は戦後、この事実を語ることはなかった。親族はもちろん工藤の夫人ですらこの事実を知らなかった。「サイレント・ネービー」の発露であろう。工藤が艦長を退任したのち「雷」は、西太平洋で米潜水艦の攻撃により、乗員約260人を乗せたまま沈没した。この悲劇が、工藤をして英兵救助劇の事実を封印させたのかもしれない。

 工藤は、終戦後自衛隊や大企業の招きにも一切応じることもなく、病院の事務の仕事をするなどして生計を立て、毎朝、戦死した部下や仲間の冥福を祈り仏前で合掌することを日課とした。享年78歳。

 親友の赤鬼のため、自らを犠牲にする青鬼との友情を描いた童話「泣いた赤おに」。作者の浜田広介は高畠町出身だ。その高畠町は、身をていして敵兵を救った2人の軍人も生んだ。まるで青鬼を思わせるような行動は、今も故郷で語り継がれている。

 1942年、現在のフィリピンに配属された旧日本陸軍中佐(当時)の神保信彦(1900~78年)は、ミンダナオ島第10独立守備隊司令官の高級副官を務めていた。神保は抵抗部隊の捕虜のうち、いずれ死刑になるであろう1人の男の助命嘆願を上官に申し出た。その男は、独立後に初代大統領となるマヌエル・ロハスだった。

 「ロハスの人間的魅力に惹

かれたんだろう」

 山形市で不動産管理業を営む甥

おい

の本間政博さん(66)は、神保の妹である母・清江さんから、そう伝え聞いた。

 神保は油絵の風景画を好み、転戦した中国の戦場でも悠然と描いていたという。「発砲音が聞こえると、銃弾をよけるように部下の前で踊り始め緊張を和ませたそうだ」。本間さんは、おおらかな人柄を物語るエピソードを披露する。

 来年5月の大統領選には、同名の孫、マヌエル・ロハス氏が立候補している。「不利な情勢の中、祖国のためにあえて戦ったそのDNAは、今の国民にも必要とされるはず」。本間さんは大統領選の行方に熱い視線を送る。

 海上に漂流する英国兵422人を救った旧日本海軍少佐(当時)の工藤俊作(1901~79年)も高畠町出身だ。

 42年3月、工藤が艦長を務める駆逐艦「雷

いかづち

」は、インドネシアのスラバヤ沖海戦で撃沈された英国の重巡洋艦と駆逐艦の乗組員を発見した。この時、工藤は敵潜水艦から攻撃される危険を顧みず、敵兵を収容するよう指示し、多くの人命を救った。

 工藤は戦後、親族にもこの一件を口にしなかったとされる。60年以上を経て、作家の恵隆之介氏が記した「敵兵を救助せよ!」の出版が契機となり、広く知られるようになった。

 「敵をも大事にするという武士道の表れだろう」

 浜田広介記念館(高畠町)の鈴木征治理事長(76)は語る。2010年には工藤を顕彰する碑が記念館の敷地に建てられた。

 工藤の母校・県立米沢興譲館高校では先輩の功績をたたえようと、13年に生徒が工藤の親族に聞き取りをしてリポートをまとめた。その記録はホームページで公開されている。

 「浜田の神髄は『愛と善意のヒューマニズム』」と鈴木理事長は考える。

 作家の浜田、陸軍の神保、海軍の工藤とそれぞれ立場は異なるが、「見返りを求めず、たとえいがみ合っても相手を尊ぶべきだとする心は、3人に共通しているのではないか」と思いを巡らせる。

フォール卿、墓参の願いを果たす

フォール卿、墓参を果たす

 工藤氏に対して、「人生の締めくくりとして、自身が生きているうちにお礼を言いたかった」と。工藤氏の消息を求めてフォール卿が初めて来日したのは、平成15年(2003年)10月であった。しかし、当時は、工藤氏の墓も、また、遺族も所在が分からずに、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 このフォール卿の願いを受けて、「敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」の著者・恵隆之介氏が、その3ヶ月後に、遺族を見つけ出した。その一連の様子を本年の1月1日の稿で紹介させていただいた。その折、恵氏から工藤俊作氏の話を初めて聞いた甥の七郎兵衛氏は、「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙されたそうだ。工藤俊作氏は己を語らずに世を去っていたのである。

 この実話は、フォール卿自身がタイムズ紙への投稿(1998年4月)の中でであえて語り、当時、天皇陛下の英国訪問に反対した同国内の一部世論を沈黙させたのであった。

 その工藤氏の墓参のために、この度は、フォール卿が墓籍のある薬林寺(埼玉県川口市)を訪れて本堂で焼香。フォール卿が、工藤氏の墓前に捧げた言葉は「Thank You」であった、と誌面に記されている。

 高齢、しかも車椅子姿のフォール卿を写真記事を通じて拝見する1人として、あるいは、これが最後の来日となるやもしれぬ、との予感は過ぎる。しかし、いつまでもご健勝であられることを願わずにおられない。以下、ここに、実話を本年1月1日の稿より紹介する。良識が、幾多の先人の功を見直され、日本の心を再考される。稚稿ながら、1つのご参考となれば、と。また、どこかでお役に立つ機会があれば幸甚である。

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死ぬ前にお礼を言いたかった

 英国から、はるばる感謝を述べるために来日したフォール卿(当時・フォール中尉)は、その日の出来事を振り返り、次のように語った。云く、「救助の旗が揚がった時は、夢かと思いました。彼ら(日本兵)は敵である私たちを全力で助けてくれたのです」と。また、「1人、2人を救うことはあっても、全員を捜そうとはしないでしょう。たとえ戦場でもフェアに戦う。困っている人がいれば、それが敵であっても、全力で救う。それが日本の誇り高き武士道であると認識したのです」と。

敵兵の命を救った艦長命令

 開戦翌年の1942年 (昭和17年2月27日)。ジャワ島北方のスラバヤ沖で、日本艦隊と英米蘭の連合部隊が交戦。連合部隊側は艦船15隻中11隻を撃沈で失い、残る4隻は逃走。撃沈した「エクゼター」(英海軍の巡洋艦)の乗組員多数が救命ボート等による漂流を続けていたが、生存の限界に達した3月2日に、日本海軍の駆逐艦「雷」が海面に浮遊する多数の英国兵を発見。敵潜水艦から魚雷攻撃を受ける危険性がある。その戦場でのことであった。その前には、日本の病院船の救命ボートが攻撃を受け、158名が命を落とす事態も起きていた。まさに、交戦最中の危険な海域での出来事であった。

 だが、「敵兵を救助せよ」。「雷」艦長の工藤俊作少佐のこの命令により、「雷」は「救難活動中」を示す国際信号機を掲げ、英国兵の救助に当たったのである。だが、長時間の漂流で体力を消耗している英国兵を海面から拾い上げる救助作業は難航。そこで、工藤艦長は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」との命令を発し、船内総力を挙げての救助に当たるよう指示したのである。

 ほぼ総員に近い兵員と、はしご、ロープ、竹竿(たけざお)等々。さらには、魚雷搭載用のクレーンまで、使用可能なすべての装備を投入した救助であった。「漂流者を全員救助せよ」。「漂流者は1人も見逃すな」。工藤艦長のさらなる命令により、「雷」は進行しては止り、すべての英国兵を救助したのであった。その数は実に「422名」。まさに「雷」の乗組員に倍する人数であった。さらに、「雷」の兵員はそれを厭(いと)わず、重油で汚れた英国兵士の身体をアルコールと木綿で丁重拭き取り、貴重な水と食料を提供したのであった。

 その翌日、ボルネオ停泊の病院船へ捕虜として引き渡すことになるが、救助した英国兵の中から将校たちを甲板に招き、工藤艦長は次の言葉を発している。「You had fought breavely.(諸官は勇敢に戦われた)」。「Now, you are the guest of the Imperial Japanese Navy(諸官は日本帝国海軍の(名誉ある)ゲストである」。艦長のこの言葉に、英国将校たちは敬礼を以って感謝の意を表したのであった。

敵兵を救助せよ!

英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長

単行本: 334ページ

出版社: 草思社 (2006/06)

ISBN-10: 4794214995

ISBN-13: 978-4794214997

発売日: 2006/06

価格: ¥ 1,785 (税込)

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書籍の概要

 一九四二年二月二八日のスラバヤ沖海戦のあと、日本海軍は、自艦を撃沈され海上を漂流する多数の連合国兵士を救助した。文字どおり武士道が発揮された瞬間であり、世界海戦史上でも稀な感動的な出来事なのだが、にもかかわらず、これまで戦史にのることもなく、ほとんど語られることがなかった。それは、工藤艦長が、戦後自衛隊にすすむこともなく、同期の人たちの勧めで就職することもなく、周囲に自らを語ることもなかったという事情もあるが、やはり東京裁判史観の影響があったことは否めまい。

 ところが、平成一五年、スラバヤ沖海戦で「雷」に救助された元英国海軍少尉フォル卿が来日、護衛艦の観閲式にも参列する。このとき、元海上自衛隊士官である著者はフォール卿から依頼を受け、すでに亡くなってはいたが、工藤艦長の消息を尋ねることになる。著者は数か月かけて、工藤艦長の墓地の所在地などを探りあてフォール卿に報告する。この間著者は当時「雷」の乗組員で存命の三名の人たちとも接触、工藤艦長の人となりと救助時の詳細を聞くことができたのである。これが著者が本書を執筆する動機となった。その三名とは、航海長の谷川清澄元少佐、艦長伝令の佐々木確治一等水兵、砲術手の勝又一一等水兵である。この人たちの記憶は鮮明で、これによって救助当日の状況は正確に再現されることになった。また、フォール卿へのインタビューと、工藤艦長への献辞が掲げられている自伝『マイ・ラッキー・ライフ』が証言を補強している。

(書籍紹介より引用) (小ブログで一部補正)

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美徳ゆえに「語らず」

 英国に戻ったフォール氏は、後にフォール卿となり、有能な外交官として活躍。晩節に差しかかった1996年に、自らの人生を一冊の著書にまとめた「マイ・ラッキー・ライフ」。その1ページ目には、謝辞を1人1人の関係者に述べ、そして、この本を、「私を救ってくれた日本帝国海軍の工藤俊作少佐に捧げる」と記している。

 来日した理由についてフォール卿は、「自分が死ぬ前に、誇り高き日本人である工藤艦長に、是非、お礼を言いたくて日本を訪れたのです」と。また、「この出来事は、日本人に対して私が持つ印象にずっと影響を与えました。深い尊敬と感謝の念を抱いています」と。だが、工藤俊作氏の消息はつかめなかったという。後に、同氏は1979年1月4日に生涯を閉じていたことが判った。

 工藤氏はこの日の出来事を家族にも語らなかった。その理由について、別の艦船の艦長になった後に「雷」が敵の攻撃で撃沈して全員が死亡。多くの部下と戦友を失った悲しみから終戦後は戦友と連絡を一切とらず、余生を過ごしたため、との指摘がある。ゆえに、一言も触れることは無かったとするものだ。だが、当時の「雷」の航海長を務めていた谷川清澄氏は、「(工藤氏ならきっと)俺は当たり前のことしかやってないんだ。別に、褒(ほめ)められることでもない、と言ったと思います。そういう人でした」と証言している。

 語らなかった真の理由は、やはり美徳ゆえに語らず、との工藤氏の信念にあったと謂えるのかもしれない。

戦史に詳しい方は彼の名前をご存知かもしれません。敵兵を400名以上救助したことで有名になった工藤俊作・海軍中佐について5回にわたりご紹介します。この話は2006年に一冊の本として出版されるまで、歴史の彼方に埋もれていました。

 

 太平洋戦争が始まった翌年の1942(昭和17)年227日から31日にかけて、インドネシアのジャワ島北部のスラバヤ沖で、日本海軍と英米蘭の連合艦隊により海戦が行われました。 

 このうち31日の戦闘で英巡洋艦「エグゼター」英駆逐艦「エンカウンター」が日本海軍により撃沈されました。英乗組員数百名は一日一晩漂流を続け、32日の翌日に偶然その場を通りかかった日本海軍の駆逐艦「雷」(いかづち)に救助されました。

 

 当時の駆逐艦「雷」の乗員は220名、その2倍に当たる英国軍人422名を救助する英断を下したのは、艦長の海軍中佐、工藤俊作でした。

 

 当時「雷」は戦闘行動中であり、敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける可能性のある水域を航行していたため、救助活動は極めて危険極まりない行為でした。また乗員を上回る大人数の捕虜を乗艦させるということは、艦で反乱を起こされる危険性がありました。

 それにもかかわらず、このような状況下で多数のイギリス兵を救助したことは、世界海軍史でも前例がない出来事と言われています。

 工藤艦長は実際のところ、海上に漂流者を置き去りにして行っても、誰からも非難されることはなかったのです。それほど工藤艦長の振る舞いは驚嘆に値する行為でありました。

彼は敵兵を友軍以上に丁重に扱い、後に捕虜として大戦を生き残った英国士官に感謝されることになります。

 その一人が英国海軍中尉・サムエル・フォール卿でした。彼は救助された後、インドネシアの捕虜収容所で終戦まで過ごし、戦後は外交官となった人物です。

フォール卿は80歳を超え人生の総決算として来日し、工藤元艦長を探しましたが見つからず、当時海自に勤務していた恵隆之介氏に調査を依頼します。
 後にその集大成が恵氏により、『敵兵を救助せよ!』という本として上梓され、世に知られることとなりました。

 それでは駆逐艦「雷」(いかづち)の艦長、工藤俊作はどんな人物だったのでしょうか。

  工藤俊作は1901(明治34)年に山形県置賜(おきたま)郡屋代(やしろ)村の農家に生まれました。しかし彼の祖父は寺子屋教育を受け士族に負けない程博識で、工藤はこの祖父から多大な影響を受けました。また屋代村も教育熱心で自立心旺盛な地域で、このような環境も工藤にとって良かったようです。

 工藤は米沢興譲館中学を経て、海軍兵学校の51期に入学しました。工藤の性格はかなり控えめで、兵学校の同期生からは「実にシャイな男であった」と言われています。しかし大柄な体躯で、39歳の時には身長185センチ、体重は95キロありました。

 兵学校卒業後には少尉候補生として練習艦隊に配属されましたが、中学で始めた柔道は強いし体格は大きいしで、誰も工藤にケンカをふっかける者はいませんでした。それでいて温厚な性格なので、「大仏」の異名を取っていました。

 1929(昭和4)年に工藤は28歳で、素封家の造り酒屋の娘、増淵かよと挙式を挙げました。夫婦仲は良く、工藤の中学時代の同級生の妻が、当時の二人をこう回想しています。

 「ご主人(工藤)は大きなお身体のところ、奥様はおやさしく、人形のように、うつくしくあられ、ほんとうにお似合いのご夫婦でした。傍らでながめておりましても、羨ましい程、奥様を大事になされました。」

 工藤夫妻には子どもはありませんでしたが、「この夫人に看取られて生涯を終えただけでも幸せであった」と、後に工藤の甥、七郎兵衛夫妻は語っています。

 工藤俊作少佐の専門は水雷で、水雷学校、砲術学校を経て駆逐艦勤務を送り、1940(昭和15)年11日、後に敵兵救助に当たる駆逐艦「雷」(いかづち)の艦長に着任しました。

 

 その頃の工藤艦長の様子です。

 

 「工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員はこの艦長にたちまち魅了されていく。艦長としては珍しく眼鏡をかけており、柔和で愛嬌のある細い目をしていた。とても猛禽類のような目をした駆逐艦艦長のイメージではないのだ。

 

 着任後の訓示も『本日より、本艦は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する』というものだった。乗組員は目を白黒させる。」

 

 この時代の下士官兵の間での体罰・いじめは当たり前で、トップもそれを見て見ぬ振りをしていましたから、これは極めて珍しい措置と言えます。

工藤の兵学校時代の校長は、後に最後の戦時内閣首相となった鈴木貫太郎でした。彼は鉄拳制裁を禁じ、自由闊達な気風を重んじていました。工藤も鈴木校長からの薫陶を受け、彼の方針に倣ったのではないでしょうか。

 

「工藤は、日頃士官や先任下士官に、『兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな』と口癖のように言っていた。

 

しかも、酒豪で、何かにつけて宴会を催し、士官兵の区別なく酒を酌み交わす。柔道は三段で得意技は跳ね腰。

 

着任後二か月経過すると『雷』の乗組員は僚艦の乗組員に『オラが艦長は・・・』と自慢するようになり、艦内の士気は日に日に高まっていった。

  このようにしてかもし出された艦内の雰囲気と、乗組員の練度の高さは、約一年後、ジャワ海での敵兵救助という歴史的偉業を果たすことになる。」

 

また工藤は、部下の能力を引き出すことに非常に長けていました。

「哨戒警戒中、見張りが流木を敵潜水艦の潜望鏡と誤って報告することがあった。

 艦長はこの時、決して怒ることなく、『その注意力は立派だ』と、報告した見張りを呼んで誉めていたのだ。

このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。

こうした『雷』の艦橋は、たとえ戦闘中でもほのぼのとした家庭的雰囲気があった。この結果『雷』の乗組員は、工藤を慈父のように慕い、『この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない』とまで公言するようになっていった。」 

 1942(昭和17)年31日、英巡洋艦「エグゼター」英駆逐艦「エンカウンター」はジャワ島のスラバヤ沖で日本海軍に撃沈され、海に飛び込んだ英国兵たちは波間に漂っていました。

 「救命浮船に5,6人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食料も飲料水もない有様でした。
 この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な状況に置かれていました。」(日本の駆逐艦「曙」が近づいてきたが、何もせずに去って行った。)

 194232日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇り始めるとまた猛暑の中にいました。

 仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある劇薬を携行しておりました。」

 漂流者が絶望的になりつつあった午前10時ごろ、目の前に突然日本の駆逐艦が現れました。これが工藤艦長の「雷」でした。駆逐艦は「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、敵兵救助の作業に入りました。

 しかし救助とはいえ、ジャワ海のこの海域で艦を停止させるのは危険きわまりない行為でした。事実、227日から31日まで、この海域では「敵潜水艦合計7隻撃沈」の報告を受けており、まさに潜水艦が頻繁に航行する通り道となっていました。

 そんなわけで、他の海軍艦艇は漂流者の救助には冷淡でした。34日、この海域を通過した駆逐艦「野分」(のわき)は敵兵を救助しようとしたところ、機動部隊司令部から移動命令が出たため、救助活動を中止しました。

 重巡「那智」の艦長は、危ない海域で漂流者を収容するため艦の停止さえ嫌がったという証言があります。しかし国際法上は、敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、漂流者を放置しても違法にはならないため、咎めを受けることはなかったのです。

 ところが工藤艦長の駆逐艦「雷」は、危険を承知で敵兵の救出作業を開始しました。彼は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」という、極めて異例の命令を発しました。

 「下士官兵の重症者の中には浮遊木材にしがみつき、『雷』に最期の力を振り絞って泣きながら救助を求めていた。その形相は誠に哀れであったという。顔面は重油で真っ黒に汚れ、被服には血泥がべったりと張り付いていた。」

 「(イギリス艦長たちの収容後)敵兵は『雷』にわれ先に殺到してきました。

 一時、パニック状態になったので、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、集団後方から何か号令をかけました。すると、整然となりました。

 『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。」

 「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が(負傷している)『エクゼター』副長、次に『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿(しんがり)が青年士官という順でした。

 当初『雷』は自分で上がれる者を先に上げ、重症者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。

 その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』(はるな)の乗組員として、カッター(手漕ぎボート)で沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対照的な情景を目にしました」 

 

 

海軍少尉の頃の工藤俊作

 前回にひき続き、駆逐艦「雷」が英国兵を救助している状況からです。

 

 「『雷』の乗組員の胸を打ったのは次のような光景であった。

 

 浮遊木材にしがみついていた重症者が、最期の力を振り絞って『雷』の舷側に泳ぎ着く光景であった。彼らはロープを握る力もないため、取りあえず『雷』の乗組員が支える竹竿を垂直に降ろし、これに抱きつかせて内火艇で救助しようとした。

 ところが、そのほとんどは竹竿に触れるや、安堵したのか、次々と力尽きて水面下に静かに沈んでいくのだった。

 

 日頃、艦内のいじめ役とされていた猛者たちも涙声となり、声をからして『頑張れ!』、『頑張れ!』、と甲板上から連呼するようになる。」

 

 「この光景を見かねて二番砲塔の斉藤光一一等水兵(秋田県出身)が、独断で飛び込み、立ち泳ぎをしながら重症英兵の身体や腕にロープを巻き始めた。

 

 先任下士官が『こら、命令違反だぞ!海中に飛び降りるな』と怒号を発したが、これに続いて二人がまた飛び込んだ。」

 

 「もう、ここまで来れば敵も味方もなかった。まして海軍軍人というのは、敵と戦う以前に、日頃狭い艦内で昼夜自然と戦っている。

 

 この思いから、国籍を超えた独特の同胞意識が芽生えたのであろう。日本海軍を恐れていた英国将兵も、残った体力のすべてを出して『雷』乗員にすがった。甲板上には負傷した英兵が横たわり、『雷』の乗組員の腕に抱かれて息を引きとる者もいた。」

 

 フォール卿も次のように回想しています。

 

駆逐艦「雷」に救出されたフォール卿。

 

 「私は、当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分たちに向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。」

 

 「(日本兵は)木綿のウエス(ボロ布)と、アルコールをもってきてわれわれの身体に付いた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく。それは思いもよらなかったことだったのです。友情溢れる歓迎でした。

 

 私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴を支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処へ案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。」

 

 

 

救出された「雷」甲板上の英国兵士。

前回は駆逐艦「雷」(いかづち)が英国兵を救助し、彼らをとりあえず甲板上に収容し終わったところまで進みました。話はこれが最終回です

 

 間もなくイギリス士官たちは前甲板に集められました。何をされるのかと彼らには不安がよぎりましたが、工藤艦長がやってきて流暢な英語でスピーチを始めました。

 

 「諸君は勇敢に戦われた。今や諸君は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争を仕掛けたことは愚かなことである」

 

 ほかにも色々話したそうですが、フォール卿はこの部分だけはしっかりと覚えていました。

 

 「雷」はその後も海上の漂流者を探し続け、たとえ遠方でも生存者があれば救助し、最終的に救助者は422名となりました。これは「雷」乗員の約2倍に相当しました。甲板は立錐の余地もないほどのイギリス兵であふれていました。

 

 「雷」に救助された後の英国兵の様子です。

 

 「われわれは、自分たちにすら貴重この上もないものとしている真水や乾パンも、彼らに配給した。彼らはしかし、必要なだけ乾パンを取るとつぎつぎと箱をまわし、残ったのをそのままこちらに返してよこした。

 

英国は紳士と聞くが、まさしくそのとおり、われわれなら先をあらそって一個でも余分に掠(かす)めとろうとする根性をまる出しにする場面なのに、まったく整然とした行為だった。これにはわれわれは驚嘆した。」

 

「カンメンポーと生水を与えると、すっかり喜んで食うわ飲むわ。水は結局全員で3トンは飲んでしまいました。士官には特別待遇でご馳走が出ました。ただし、士官の態度は貫禄はありましたが、中には、呆れた者もおりました。」

 

「明るい英国水兵は、いかにも日本海軍に移籍したような気分になり、(重巡)『足柄』に手を振る者もいた。実際、佐々木(一水)の話では、日本風の入れ墨をした若い水兵の中には、このまま日本へ行けると思い、『フジサン』『ゲイシャ』と期待をこめて発言する者もいたという。」

 

 イギリスの救助兵たちは、一晩「雷」で過ごした後、翌33日にパンジェルマシンに入港しました。そして捕虜たちはオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡され、「雷」の任務は終了しました。

 

オランダ病院船「オプテンノート」に移乗する英国士官たち。

 昭和178月、工藤は「雷」から駆逐艦「響」艦長に就任することになり、同年11月には中佐に進級しました。「響」でも親父肌な工藤艦長は乗組員に慕われ、和気あいあいの雰囲気の中で勤務していましたが、そのうち体調を崩し、横須賀鎮守府の陸上勤務となりました。

 

工藤の海軍生活の後半は病気がちとなりました。彼の温和な性格にもかかわらず、機敏果敢な戦術が要求される水雷屋には合わなかったため、かなり無理をしていたと言われています。

 

戦後の工藤艦長は、クラス会の行事もすべて断り、死んでいった同期や部下の冥福を毎朝祈るという慎ましい生活を送っていました。

 

晩年の工藤夫妻

そして彼の死後、彼の甥である工藤七郎衛氏はその業績を知らされ、「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と、初めて彼の業績を知り落涙されたのでした。

 

工藤夫妻の墓は、現在の埼玉県川口市朝日の薬林寺境内にひっそりと建っているそうです。

 

「雷」航海長だった元部下が工藤夫妻の墓参に訪れたところ。彼の足もとにオーブが写っている。