41:ヴァルテラント帝国大管区(Reichsgau Wartheland der NSDAP)

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1939年9月にはポーランド西部にドイツの「ポーゼン軍事地区(Militärbezirk Posen)」が設置。民政長官には、アルトゥール・グライザーが任命された。

1939年10月26日付でポーゼン軍事地区はドイツ国に編入、ポーゼン帝国大管区となる。1939年11月9日、ウッチの工業地帯を編入することで東方に移り、1939年11月20日に確定した。

1940年1月29日名称は「ヴァルテラント」とされた

管区都:ポーゼン
ポズナン県、ウッチ県のほとんど、ポモージェ県の5つの郡、ワルシャワ県の1つの郡から成っていた。
帝国総督(Reichsstatthalter)
アルトゥール・グライザー(Arthur Greiser[1939年10月21日-1945年5月8日])
歴代大管区指導者代理
ロベルト・シュルツ[代行](1939年10月28日-1941年3月)
クルト・シュマルツ(1941年3月-1945年)

ホーエンザルツァ行政管区(Regierungsbezirk Hohensalza)
行政長官(Regierungspräsident)
市街地(Stadtkreise):グネーゼンGnesen、1945年1月21日赤軍占領,ホーエンザルツァHohensalza、1945年1月20日赤軍占領,レスラウLeslau、1945年1月20日赤軍占領.
郡部(Landkreise)
アルトブルグント郡Altburgund
ディートフルト(ヴァルテラント)郡(Dietfurt (Wartheland)
アイヒェンブリュック郡Eichenbrück
グネーゼン郡Gnesen
ヘルマンスバート郡Hermannsbad (Sitz: ヴァイクセルシュテット(Weichselstädt)
ホーエンザルツァ郡Hohensalza
コニーン郡Konin
クトノ郡Kutno
レスラウ郡Leslau
モギルノ郡Mogilno
ヴァルトローデ郡(Waldrode
ヴァルトブリュッケン郡Warthbrücken

リッツマンシュタット行政管区(1941年2月15日改称)
Regierungsbezirk Litzmannstadt)
市街地(Stadtkreise):カーリシュ(Kalisch、1945年1月23日赤軍占領),リッツマンシュタット(Litzmannstadt、1945年1月16日赤軍占領)
郡部(Landkreise)
カーリシュ郡Kalisch
ケンペン(ヴァルテラント)郡Kempen (Wartheland)
ラスク郡Lask (Sitz:パビアニッツPabianitz)
レントシュッツ郡Lentschütz (Sitz:ブルンシュタットBrunnstadt)
リッツマンシュタット郡Litzmannstadt
オストロヴォ郡Ostrowo
シーラーツ郡Schieratz
トゥレク郡Turek
ヴェルン郡Welun

ポーゼン行政管区(Regierungsbezirk Posen)
市街地(Stadtkreise):ポーゼン(Posen)
郡部(Landkreise)
ビルンバウム(ヴァルテラント)郡Birnbaum (Wartheland)
ゴスティンゲン郡Gostingen
グレーツ(ヴァルテラント)郡Grätz (Wartheland)
ヤロチーン郡Jarotschin
コルマール(ヴァルテラント)郡Kolmar (Wartheland)
コステン(ヴァルテラント)郡Kosten (Wartheland)
クロトシーン郡Krotoschin
リッサ(ヴァルテラント)郡Lissa (Wartheland)
オボルニック郡Obornik
オボルニック郡Posen
ラービッチュ郡Rawitsch
ザムター郡Samter
シャルニカウ(ヴァルテラント)郡Scharnikau (Wartheland)
シュリム郡Schrimm
シュローダ郡Schroda
ヴォルシュタイン郡Wollstein
ヴレッシェン郡Wreschen

 

1939年10月26日、後のSS大将武装SS大将、ヴィルヘルム・コッペが、ポーゼン駐在のヴァルテガウのSS及び警察高級指導者に任命された。SS長官ハインリヒ・ヒムラーのヴァルテラント帝国大管区での代理であった。SSは、ドイツ人入植者、特にバルト・ドイツ人向けの土地を用立てるべく、ユダヤ人10万人、ポーランド人20万人を総督府に追放する責任を負っていた。コッペはまた、ユダヤ人のリッツマンシュタット・ゲットーへ、またクルムホーフ絶滅収容所への移送を組織した。しかも、ガス車(Gaswagen)を初めて使用した囚人の大量殺害は、SSの命令で、またヴァルテガウ行政の「至急処理行動(arbeiteiliges Handeln)」のもと、推進された。動員された治安部隊は、ヴィルヘルム・コッペの指揮下であったが、グライザーの指揮下の行政当局が「地域での最終解決」に責任を負っていた。

 

国防軍

ヴァルテラントはドイツ国の兵員補充組織(Wehrersatzorganisation)に組み込まれ、第21軍管区ドイツ語版が設置された。

ポーゼン要塞ドイツ語版司令官のエルンスト・ゴネルErnst Gonell大佐は、押し戻されつつあるドイツ国防軍、また動員可能な全残存兵力からなる総勢3万から6万で防衛にあたった。

ドイツ国防軍の最大の演習場は帝政時代からあったヴァルテラーガー演習場ドイツ語版であり、1939年までポーランド領であった地域ではシーラーツ郡ドイツ語版シーラーツ演習場ドイツ語版であった。シーラーツ演習場は非常に広大で、複数の師団が同時に演習を行うことができた。国防軍はこの他に小規模な演習場を3か所使用していたが、これはヴァルドウゼーシュリムヴェルンにあった。1945年1月20日になってから国防軍、またポーゼン第21軍管区(Wehrkreis XXI Posen)司令官、ヴァルター・ペッツェル(Walter Petzel)に迫られ、ヴァルテラントの住民を避難させることにした。同日中に大管区指導者グライザーは、党指導部の大部分をベルリンへ撤退させ、自身の代理クルト・シュマルツに大管区の指導を委託した[8]