Oradour-sur-Glaneの虐殺

59月 - による conmo3 - 0 - NEWS
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19446月、連合国のノルマンディー上陸作戦の進行につれ現地のフランス・レジスタンスはドイツ軍の作戦を妨害するため、通信攪乱などの各種工作をより積極的に行うようになっていた。参謀本部からの指示を受け、ノルマンディーに向け進軍中であったSS2装甲師団ダスライヒは行く先々で彼らによる攻撃と破壊工作に苦しめられていた。

610早朝、とあるフランス人2名より密告を受けた

第4SS装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」の第1大隊の指揮官SS少佐アドルフ・ディークマン(Adolf Diekmann)は、同僚の

SS少佐オットー・ヴァイディンガー(Otto Weidinger)に対し「ドイツ人高級将校1名がオラドゥール村でマキ(レジスタンス組織)により捕らえられたようだ」と報告した。そのフランス人はオラドゥールの村民ほぼ全てがマキに関わっており、現在マキの指導者たちがオラドゥールに滞在しているとも述べた。ちょうど同時期、リモージュにいた親衛隊保安部員は現地の内通者からマキの司令部がオラドゥールに存在するとの情報を得た。捕らわれたドイツ人高級将校は

SS少佐ヘルムート・ケンプフェ(Helmut Kämpfe)とされるが、彼はディークマンとヴァイディンガーの友人であった。なお、その後ケンプフェが発見されることはなくSSが作成した「南フランスでの対テロ作戦中の行方不明者リスト」にも彼の名前は載っていない。

同日、ディークマンに率いられた第一大隊はオラドゥールを包囲し、住民に村中心部にある広場に集まるよう命令した。表向きの口実は身分証明書の検査であった。集まってきた住民のうち、女性と子供は教会に連れて行かれた。しばらく経ったのち男性は6つの納屋に分かれて連行されたが、その納屋には既に機関銃が待ちかまえていた。生存者の証言によれば、SSはまず脚を狙って発砲。彼らを逃れられないようにした後、たきつけで体を包み、納屋に火をつけた。生存者はわずかに5名(納屋から男性6名が逃げ出したが、そのうち一人は逃亡後すぐに発見され、射殺された)で、197名が死亡した。

男性たちの「処分」を終えると、兵士たちは教会の中に入り放火した。一説によれば、毒ガスも使用されたとされる(ただし武装親衛隊の装備に毒ガスはなく、またヒトラー自身は使用を厳禁している)。中にいた女性と子供はドアや窓から逃げだそうと試みたが、ここでも待ち受けていたのは容赦ない機関銃による銃撃であった。女性240名、子供205名が混乱のなかで命を落とし、奇跡的に女性1名が一命を取り留めた。また、村に兵が現れてすぐに逃げ出した20名ほどの集団も逃げ延びることができた。その夜、村は以前の面影を窺い知ることができないほどに徹底的に破壊された。数日後、生存者たちは犠牲者の埋葬を許された。

ドイツはレジスタンス運動のメンバーをテロリストと見なしていた。制服を着るわけでもなく非武装のドイツ占領要員への攻撃をためらわず、一般民衆に紛れて活動する「顔の見えない」彼らを非常に大きな脅威と捉えていた。オラドゥールにおける虐殺は突発的なものではなく、慎重に練られたレジスタンス一掃政策の一部だった。しかしながら、このような虐殺や何千人にもおよぶ一般市民の死にもかかわらずフランスにおけるレジスタンス運動は様々な形態を取りながら終戦まで続けられた。

フランス南西部の都市・ボルドーでの軍事裁判を前にした1953712、生存していた兵士約200人のうち65人を対象にした審理が開始された。当時、東ドイツに居住していた者はフランスに引き渡されなかったため出廷したのはわずか21人でその内訳はドイツ人7名、

残りの14人は13人のマルグレ=ヌーたちと、アレマン人(アルザス出身)の志願兵1人であった。マルグレ=ヌーの被告たちは起訴事実を認め、自分たちは意志に反してSSに徴集されたと低姿勢の主張した。だが、SSの記録によればそのような強制徴集の事実はなく、ナチスに対し共感をもっていた彼らが自発的に参加した可能性が高い。

フランス当局の見解は2つに割れていた。一方は強制的な徴兵の犠牲者、一方はナチス・ドイツの蛮行の犠牲者として、皆が団結を感じた。リムーザンとアルザス世論の間の非常に緊迫した雰囲気の中で進められた。195421120人の被告に対し有罪が言い渡された。これに対しては大論争が巻き起こり、アルザス住民の不安を引き起こした。

5年から11年の懲役刑がマルグレ=ヌーたちに宣告され、一方で志願兵は死刑を宣告された。1953年2月、フランス国会は重労働を宣告された13名に対して恩赦を与えた。その後、時をおかずしてアレマン人は釈放された。1958までにドイツ人被告も同様に全員釈放された。

レジスタンスに対する攻撃命令を下した

第2SS装甲師団ダスライヒ指揮官ハインツ・ラマーディング(Heinz Bernard Lammerding)は戦後企業家として成功し、一度も起訴されることなく1971に死去した。

武装親衛隊に対する最後の公判は1983に行われた。その少し前、

 

Heinz Barth

SS中尉ハインツ・バールト(Heinz Barth)が東ドイツ(当時)領内で捕らえられた。バールトはオラドゥールでの虐殺に小隊指揮官として参加し、45名の兵を率いていた。彼は男性20名に対する射撃指示をだしたとされ、ベルリンにある裁判所で終身刑を言い渡された。1997、バールトは統一後のドイツで釈放された。

戦後シャルル・ド・ゴールは、オラドゥールを再建せず遺構として残すことを決めた。ナチス占領の残忍さを後世に伝えるため、当時のまま留めようと決めたのである。1999には、フランス大統領ジャック・シラクがオラドゥールを訪問する人々に、この村が経験した惨劇を伝えるためのメモリアル・センター(サントル・ド・ラ・メモワール、Centre de la mémoire)を開設した。

201418、虐殺に関与した当時19歳の親衛隊員が、ケルンで起訴された。

仏独両大統領、虐殺の村を歴史的訪問

2013年09月05日 09:01 発信地:オラドゥール・シュル・グラヌ/フランス

ナチスの軍隊が住民を虐殺した仏オラドゥール・シュル・グラヌを訪れたガウク独大統領(左から2人目)、オランド仏大統領(同3人目)、虐殺の生存者エブラス(Robert Hebras)さん(同4人目、2013年9月4日撮影)。(c)AFP/YOAN VALAT
ナチスの軍隊によって642人が虐殺されて廃墟と化したフランス中西部の村、オラドゥール・シュル・グラヌの訪問の最後に訪問者ノートに記入するフランソワ・オランド仏大統領(左)とヨアヒム・ガウク独大統領(2013年9月4日撮影)。(c)AFP/YOAN VALAT
ナチスの軍隊によって642人が虐殺されて廃墟と化したフランス中西部の村、オラドゥール・シュル・グラヌの廃墟の前に立ち尽くす(右から)フランソワ・オランド仏大統領、虐殺の生存者ロベール・エブラス(Robert Hebras)さん、ヨアヒム・ガウク独大統領(2013年9月4日撮影)。(c)AFP/YOAN VALAT
ナチスの軍隊によって642人が虐殺されて廃墟と化したフランス中西部の村、オラドゥール・シュル・グラヌを訪れた(左から)虐殺の生存者ロベール・エブラス(Robert Hebras)さん、ヨアヒム・ガウク独大統領、フランソワ・オランド仏大統領(2013年9月4日撮影)。(c)AFP/MICHEL EULER

 

【9月5日 AFP】フランスのフランソワ・オランド(Francois Hollande)大統領とドイツのヨアヒム・ガウク(Joachim Gauck)大統領は4日、第2次世界大戦中の1944年6月10日にナチスの軍隊によって15歳未満の子供205人を含む642人が虐殺されて廃墟と化したフランス中西部の村、オラドゥール・シュル・グラヌ(Oradour-sur-Glane)を訪問した。ドイツの大統領が同地を訪れたのは初めて。

両大統領は女性と子供たちが閉じ込められ、毒ガスで殺害された後、遺体もろとも焼かれた教会の廃墟に入った。母親と女きょうだいを殺されたロベール・エブラス(Robert Hebras)さん(88)も同行した。3人は手を取り合いしばらくの間何も話さずにその場に立ち止まった。

ドイツ軍によって身分証明の点検との口実で広場に集められた女性と子どもたちは教会に閉じ込められ、男たちは機関銃の待ち受ける納屋に連行された。 当時19歳だったエブラスさんは機関銃で殺害された人たちの死体の下にうずまって生き延びた。エブラスさんはこの惨事を生き延びた3人のうちの1人。仏独両大統領は村民が集められた広場を訪れた。

■「ドイツと和解しなければならない」と生存者

オランド大統領は、「われわれがここにいる意味は象徴的なものにとどまらない…過去そして現在において人の命を奪うことによって軽視されている原則をいつでも、どこででも尊重するという約束を確認するためにここにいるのだ」とシリアのバッシャール・アサド(Bashar al-Assad)大統領を念頭に置いたかのような発言をした。

ガウク大統領は第2次大戦後にドイツと和解する姿勢を示したフランスに謝意を表するとともに、「われわれはオラドゥールも、残虐な出来事の舞台となったそのほかの場所も決して忘れない」と述べた。

「私は長い間、憎しみと復讐心に燃えていた」というエブラスさんは、ガウク独大統領の訪問はちょうどよい時で「いまより前だったら早すぎた」と語り、「私たちはドイツと和解しなければならない」と語った。

第2次大戦後、後に仏大統領になったシャルル・ドゴール(Charles de Gaulle)将軍はこの村を再建せずにナチスの残行為を後世に伝えるため廃墟のまま残すことを決断し、近隣に新しい村が作られた。ジャック・シラク(Jacques Chirac)仏大統領在任中の1999年、この村で持ち主が生きたまま焼き殺されたときに止まった時計や熱で溶けた眼鏡などの遺品を集めた記念館が開館した。

東ドイツの人権活動家だったガウク大統領は、2012 年にチェコ、今年3月にイタリアのナチス虐殺現場を訪問している。(c)AFP/Pierre GLACHANT, Damien STROKA

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