ドイツ西部のデトモルト(Detmold)の裁判所で、94歳のラインホルト・ハニング(Reinhold Hanning)被告に禁錮5年の刑が言い渡された。ナチス・ドイツ(Nazi)親衛隊(SS)元隊員の被告は、アウシュビッツ(Auschwitz)の死の収容所にいた2年半の間に男性、女性、子ども合わせて17万人以上の殺害に関与したとして有罪となった。被告は裁判が始まった2月には歩いて法廷に入ってきていたが、判決は車椅子に座って聞いた。
アウシュビッツの「簿記係」と呼ばれたオスカー・グレーニング(Oskar Groening)被告は、ハンガリーのユダヤ人30万人の死に関して果たした役割に対し、2015年7月、リューネブルク(Lueneburg)の裁判所で禁錮4年の有罪判決を言い渡された。このグレーニング被告と同様、ハニング被告の裁判も「最後のナチス裁判」となるだろう。
■存命者は80代以上、時間との闘い
この2つの裁判は、私がAFPに送信した記事では表現できなかった矛盾をまとっていた。
リューネブルクとデトモルトの判事は、おそらく終えることができないだろう刑期を言い渡した。司法制度はナチスという機構の歯車となっていた者たちの罪を認めたが、彼らのほとんどは既に亡くなっていた。死の収容所が解放されて70年後、年老いた男2人が裁判にかけられたが、彼らの上官たちは何年も放置されていた。戦争を生き延びたアウシュビッツの看守6500人の中で、判決が下されたのは50人未満。ドイツの司法制度は遅ればせながら、この悲惨な数字を正そうとしている。
ドイツではこの問題に関する議論が驚くほど少ない。判事たちは長年、ホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大虐殺)に対する正義は最後まで貫かれなければならないと主張してきた。だがその決意によって時折、やりきれない場面が生じる。例えば昨年、95歳のフーベルト・ツァフケ(Hubert Zafke)被告に、出廷する能力が「まったくないわけではない」と裁判所が判断したとき。あるいは、当時の年齢から少年法の下で裁かれようとしていた93歳のエルンスト・トレメル(Ernst Tremmel)被告が、裁判開始の1週間前に死亡したとき。あるいは90歳のジョン・デミャニューク(John Demjanjuk)被告が2011年にミュンヘン(Munich)で判決を言い渡された際、車椅子でよだれを垂らしていたときだ。
デミャニューク被告の裁判は、ナチス関連の裁判において転機となった。ソビボル(Sobibor)強制収容所の看守だった彼は、実際に誰かを殺害したことを検察が証明しないまま有罪判決を下されたからだ。
1945年のニュルンベルク(Nuremberg)裁判で始まったナチスに対するそれまでの裁判では、検察側は被告が残虐行為に直接関与したことを示す証拠を提示する必要があった。だが、デミャニューク被告の裁判(上訴中に死亡)以降は、ナチスの歯車だったという事実だけで起訴の要件を満たすとされるようになった。
ここ数年のナチスの裁判は時間との闘いとなっている。容疑者も被害者も80代以上の高齢になっているためだ。これらの裁判の証言のほとんどはホロコーストの生存者によるもので、私はこれほど悲痛な話を聞いたことがない。だが、証言者が被告について触れることはほとんどない。被告を強制収容所で見たかどうか、被害者の大半には記憶がないためだ。とりわけ広大なアウシュビッツでは、SSの看守は黒やフィールドグレーの同じ制服を着た集団で、生存者は一人一人を覚えていない。
■両者の証言が一致する「残虐性」
ハニング被告の裁判で証言に立った最初の生存者に対し、判事は「親衛隊の看守の誰かについて、何かいい思い出はあるか? 他の看守よりも、振る舞いが良かった看守はいるか?」と尋ねた。「いいえ、としか答えようがない。そんな記憶などない。私は絶え間ない恐怖の中で生きていた」と、レオン・シュバルツバウム(Leon Schwarzbaum)さん(95)は答えた。彼は家族・親族35人をホロコーストで失った。
これらの裁判における検察側の資料は驚くほど少ない。グレーニング被告の裁判では、2か月間に30万人が殺害されたことの証拠がプラスチックケース3箱に収まってしまうほどだった。一般的な刑事裁判で検察側が準備する大量の証拠に比べて、極めて少ない。
初期のナチス裁判と異なり、ホロコーストの事実の立証はもはや必要ない。歴史家たちがその恐怖を記録してきたからだ。強制収容所で起きたことについて、被告と被害者の証言が食い違うことはない。両者の視点は異なったとしても、労働力やその他の目的にかなわないと医師に判断された家族が、ガス室に入れられ瞬時に消されたということの残虐性については一致している。
■被害者たちの証言
これらの裁判で聞いた話はどれ一つ同じではなかった。私の同僚のフイ・ミン・ネオ(Hui Min Neo)は、カナダから来て証言台に立った小柄な女性、アンジェラ・オロズ(Angela Orosz)さんの話について心を痛めながら語った。オロズさんはアウシュビッツで生まれ、母親やその他の収容者たちの助けによって生き延びた数少ない子どもの一人だった。すべての被害者にそのような痛々しい過去を語る権利があり、彼らがその機会を持てなかったことは極めて遺憾だ。
私は、穏やかなたたずまいと口調で語ったエルナ・デ・ブリース(Erna de Vries)さんによって引き起こされた感情について、記しておきたいと思った。医師になることを夢見る17歳の学生だったデ・ブリースさんはユダヤ人狩りで拘束されたが、一方の親だけがユダヤ人だったために解放された。しかし彼女は家に帰り、スーツケースに荷物を詰めて、自分の意思で戻った。アウシュビッツへ行く母親に付いて行くために。デ・ブリースさんの母は死ぬ前に、娘に生き延びて、その目で見たことを世界に伝えるよう約束させた。その約束通り、デ・ブリースさんは法廷で家族に囲まれ孫娘の手を握りながら、証言した。
レオン・シュバルツバウムさんは、ポーランドのユダヤ人社会で育ったこと、父親はドイツ人のことを「詩人と哲学者を輩出する人々」と呼んで怖がろうとしなかったことを話した。しかし、シュバルツバウムさんが住んでいたベンジン(Bendzin)のユダヤ人ゲットー(隔離居住区)は、アウシュビッツとわずか50キロしか離れていなかった。ついに彼が強制収容所に送られたのは、1943年8月だった。「あの場所で何が起きていたか、私たちは知っていた。移送される列車から子どもを投げ出そうとする親もいた」
■看守たちの証言
被害者たちが証言する収容所の描写には、胸が締めつけられる思いがする。一方、看守たちの証言には、控えめに言っても、いら立ちを覚える。ハニング被告は25ページの供述書の中で、遺体焼却場のにおいについて触れ、自分たち兵士の「仲間意識が欠けていた」ことが嘆かわしいと書いた。
グレーニング被告は違っていた。30年前に引退して以降、アウシュビッツの記憶に悩まされていた彼は、司法が彼を捕らえるのを待たなかった。彼は回想録を書いたりドキュメンタリーに出演したりし、脅しや罵りの言葉にも耐えた。裁判が始まる数か月前から、記者たちの取材にも応じた。裁判官が「証言する準備はできているか」と確認し、黙秘権の行使もできると言うと、彼は「できる限り話す」と答えた。
グレーニング被告はボトルの水を一気に飲み干し、「アウシュビッツのウオッカのようだ」と言うと、信じ難いほど詳細で密度の濃い証言を始めた。話は単調なときもあれば、震え上がるような内容のときもあった。心底、後悔しているように見えるときもあれば、ナチスのプロパガンダにいかに深く洗脳されていたかの表れだというときもあった。
過去の裁判の被告たちの多くと同様にグレーニング被告も、独裁政権下で命令に従わないことなど不可能だったと述べた。だが彼は、開戦当初は自分が「陶酔」状態だったこと、そして「ドイツ人の敵」を殺すプロジェクトに参加したのだということを隠さなかった。彼がホロコーストのことを「戦争努力」と表現したり、ハンガリーのユダヤ人を絶滅させるための「日常的な」準備だと語ったりしたときに、その洗脳の深さが垣間見えた。良心の呵責(かしゃく)に苦しみ、「人生で誰かをたたいたこともない」ほど暴力に反対した男の証言は、容易には忘れられない内容だった。
歴史家たちが考えられるすべての方法でホロコーストを調査・分析してきた今、このような個人的なストーリーを語る意味は何なのかという問いもあるだろう。
ドイツ法を専門とする弁護士で歴史家のアンドレイ・ウマンスキー(Andrej Umansky)氏は「アウシュビッツがあったのは火星ではないことを理解するためだ」と言う。「個人的なストーリーによって抽象化が避けられ、そんなことは二度と起きるはずがないという考えを排除できる」
これら2つの裁判を通して、傍聴席は常に満席だった。公判が進むにつれメディアの姿が消えても、一般の傍聴席は満席だった。被害者たちの親族もいれば単なる傍聴者もいた。男女は半々ぐらいで、大学生や高校生もたくさんいた。彼らの緊張した面持ちや、中には涙で目を赤く腫らした人たちの様子を見て、彼らは決して忘れることはないだろうと、私は思った。(c)AFP/Coralie Febvre
このコラムは、AFPベルリン支局のコラリー・フェブル(Coralie Febvre)記者が執筆し、2016年7月1日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。