元ナチ戦犯、100歳で自然死で死去 イタリー

131月 - による conmo3 - 0 - NEWS
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エーリヒ・プリーブケ(Erich Priebke、1913年7月29日 – 2013年10月11日)はゲシュタポにイタリア語通訳として勤務するようになった。1941年2月からイタリアのドイツ大使館で働き、イタリア警察との間の連絡将校となった。1944年3月23日、イタリア人のパルチザンにドイツの親衛隊員や警察官33名が殺害され、アドルフ・ヒトラーは、24時間以内の10倍の報復を命じた。ローマのゲシュタポGestapo長官ヘルベルト・カプラー親衛隊中佐は翌24日、急いで320名の銃殺リストを作成し、プリーブケSS大尉の部隊に任せて銃殺を行わせた。この命令に基づきプリーブケはアルデアティーネ洞窟Ardeatine cavesにおいて、刑務所に留置されていたユダヤ人70名以上を含む15歳から74歳までイタリア人男性市民335人殺害を指揮したが、5名多いのは手違いからだった。「アルデアティーネの大虐殺(Eccidio delle Fosse Ardeatine)massacre at the Ardeatine caves 映像

この虐殺を手伝ったとされるローマ警察本部長ピエトロ・カルーソPietro Carusoは1944年9月、ファシスト及びナチの犯罪行為に積極的に加担した罪により死刑判決を受け、公開銃殺刑に処された。記録映像

銃殺隊員には処刑の経験がなく、彼らを落ち着かせるため急きょコニャックが洞窟に届けられた。市民は洞窟内で後ろ手の状態でひざまずかされ、頭部を撃ち抜かれた。洞窟はせまく、死体の上にひざまずかせるという状況で、このとき5名が無関係と判明したが、事実の隠蔽のため銃殺された。全員の銃殺が終わったのは、24日夜の8時すぎで、遺体は1mほどに積み重なり、その後洞窟は爆破され、かろうじて生きていた者も含めほとんどががれきの下に隠ぺいされたが、後日、様子を死角から見ていた農夫によって発見された。

ドイツの敗戦後、ローマで命令したカプラーは逮捕されて終身刑判決が下ったが、プリーブケは1946年にイタリア北東のビピテーノのイギリス軍捕虜収容所から脱走して妻子と「バチカン・ルート」でアルゼンチンへ逃亡し、以降50年近くも自由人としてアルゼンチンで暮らしていた。しかし1994年になってABCの報道を契機にアルゼンチン政府に逮捕され、1995年にイタリア政府に引き渡され裁判にかけられる。命令に従っただけだと頑固に無罪を主張し、実際イタリーの軍事法廷で無罪も勝ち取ったが、少なくても2名の殺害を本人が自ら行っていたことが立証され、検察側の終身刑の求刑に対し、言い渡されたのは「15年の刑」だった。彼には、イタリーのユダヤ人数千人を収容所に送った事や囚人への拷問・暴行の容疑もあったが立件されなかった。その2年後の1999年2月、プリーブケは恩赦により、その拘禁生活を自宅軟禁に切り替えられ、2013年10月11日、ローマで自然死 natural causesで亡くなった。 参照記事

余談だが、2007年にフィンランドに住んでいた彼の息子Jorge Priebkeが、公式に自分の希望の切手を作れるシステムで切手を作り、父プリーブケの顔写真の付いた切手でアルゼンチンに切手の入った郵便物を送り、アルゼンチンが抗議するという出来事が起き、フィンランドの郵政局責任者マルック・ペンチネン氏Suomen postimerkkikeskuksen johtaja Markku Penttinenが謝罪している。参照記事

彼は、1997年8月15日に102歳でカナダで亡くなったSS将校のラトビア人アルトゥールス・シルガイリスArtūrs Mihails Silgailisに次いで二人目の長寿だった。参照記事 過去ブログ:2013年5月元ナチス隊員逮捕 ドイツ 2012年3月南米逃亡ナチ戦犯容疑者の一部解明

2013年10月17日:その後11日に死去した元ナチス親衛隊将校エーリヒ・プリーブケ元受刑者の埋葬場所が、決まらない事態となっている。ANSA通信によると、ローマ市は、市民の反ナチス感情を理由に公葬と埋葬を拒否。カトリック教徒だった同元受刑者の ため、右派キリスト教団体が15日、ローマ近郊で葬儀を引き受けたが、これに抗議するデモ隊と、支持する極右グループとの間で衝突が起き、葬儀は中止に追 い込まれた。遺体は16日未明、ローマ近郊の空軍基地に移された。ローマ市は独当局との協議を政府に求めたが、出身地の独北東部ヘニングスドルフは埋葬を許可しない方針を示している。参照記事