H.M.S. “Formidable”

193月 - による conmo3 - 0 - Note
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1945年(昭和20年)8月9日早朝から10日夕まで、宮城県女川湾にて戦闘に参加している。この戦闘では、東京と北海道の輸送ルート確保のために設置された大日本帝国海軍横須賀鎮守府隷下女川防備隊の所属する艦艇7隻のうち標的艦「大浜」、択捉型海防艦「天草」、第42号駆潜艇の三隻が大破着底した(海防艦2隻、掃海艇1隻、駆潜艇1隻、特設艦船2隻、小型タンカー1隻の資料あり)。フォーミダブルの被害は所属するF4Uおよびスーパーマリン・シーファイアの各1機のみで、撃墜されて湾内と隣接する山地に墜落した。このうち、F4Uの操縦士であったカナダ海軍のロバート・ハンプトン・グレー大尉は、第二次大戦最後のカナダ人戦死者となった。グレー大尉はこの戦闘での功績によりヴィクトリアクロス勲章が授与された。グレー大尉の記念碑は女川町地域医療センターの敷地内に設置されている(カナダ大使館員が毎年二回訪れる)。大尉が操縦した戦闘機の捜索・引き揚げが試みられましたが、機体は発見できず。

なお、シーファイアの操縦士は脱出して捕虜となった。

MAITLAND LESLIE ALAN L A 22 Twice Mentioned in Despatches 10/08/1945 Sub-Lieutenant (A) Royal Naval Volunteer Reserve H.M.S. Formidable.

ではないか?

一九四五年の初め、英国海軍は極東で、フィリピンから日本本土にかけて活躍した米機動部隊の大兵力と協同作戦を開始し。「シーファイア」3型の八個中隊が、艦隊航空母艦「インブラカブル」「インデファティガブル」および護衛空母「ハンター」「ストーカー」「アタッカー」および「チェーサー」。八月には日本本土の広範な掃討作戦にも参加した。

1945年7月搭載機全54機
第848飛行隊(アベンジャーII×12)
第1841飛行隊(コルセアⅣ×18)
第1842飛行隊(コルセアⅣ×18)
第1844飛行隊(ヘルキャットII×4+第ヘルキャットPRII×2)

宮城県牡鹿郡女川町「女川湾戦没者慰霊塔」

碑文

太平洋戦争苛烈を極めたる昭和二十年八月九日、十日両日に亘り 女川湾内所在の日本海軍防衛隊

及び巡洋艦大浜以下五隻は 連合軍機動部隊の艦載機と激戦して数機を撃墜し捕虜一名を得たるも

艦艇悉く沈没し海軍主計少佐飯田寛吉殿以下百五十七名の戦死をみたるは洵に悼惜にたえず 然る

に右防衛隊の生存者神田義男氏は昨年東南アジア、沖縄等の戦跡を弔い深く感ずる所あり 町内有

志の賛同を得て慰霊塔を建立せんと発願し余に撰文を求む 依って不文を顧みず梗概を録し以て英

魂を慰む

昭和四十一年一月十日  女川町長 木村主税撰文

 

女川防備隊 嵐部隊戦歴

碑文

太平洋戦争日増に酣となり 女川港は海軍の要港として女川防備隊の任務は益々重大を極め 明治丸以下

三十数隻の艦艇は三陸沖に於て連合軍の対潜対空監視の警備につき 司令海軍大佐副島種臣以下将兵千数

百名を擁し 昭和十八年以降敵潜水艦数隻を撃沈し 数隻を撃破し 横須賀鎮守府司令長官より部隊感状

を受くるも 我軍も明治丸、第三鶴丸、桐丸、東郷丸、新東北丸、四十八号駆潜艇外十数隻を失うに至る

又二十年八月九日、十日の戦闘に於て数機の敵機を撃墜せしが 我が軍も三十三号掃海艇、金剛丸以下数

隻を失う 一方牡鹿半島全域に亘り第十四突撃隊嵐部隊司令海軍大佐大田春男以下将兵約四千人は特攻基

地を設け 海天、回龍を主として二百数十隻の特攻兵器を配備(海天回龍は回天、海龍の誤記。女川湾に回天は配備されず。)し本土決戦に備え設営中なるも終戦となる

謹みて神州不滅を信じ同方面作戦に於て殉國の英霊となられし将兵に対し 深甚なる弔意を表し御冥福を

祈る

昭和四十一年八月十日  神田義男建之