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12月

元帝国海軍中佐工藤俊作

200812月、元英国海軍中尉サムエル・フォール卿(85歳)が来日した。

戦後、英国外交官を務め、Sir称号を贈られている。

退職後、1996年に自伝『My Lucky Life』を出版。その本の巻頭には、

「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」とある。

フォール卿は、埼玉県川口市に向かい、そこで工藤俊作(くどうしゅんさく)という日本人の墓にお参りをしました。

時は、来日の日から66年ほどさかのぼります。

昭和17年(1942年)3月1日、ジャワ海からの脱出をしようとして出港した英重巡洋艦

「エクゼター」(13,000トン)

「エンカウンター(1,350トン)

の二隻が、日本海軍と交戦して撃沈されました。

そして両艦艦長を含む約450人の英海軍将兵は、漂流の身となりました。

南方の暑い日差しの中で、翌32日の午前10時ごろには、彼らはもはや生存と忍耐の限界に達していました。

そして一部の将兵が自決のための劇薬を服用しようとしていました。

そのとき、たまたま単艦でこの海域を哨戒していた日本の駆逐艦「雷(いかづち)」が、漂流している英国乗組員を発見しました。

「雷(いかづち)」の乗員は220名です。

敵兵とはいえ、その時点ではすでに漂流民です。

しかも漂流している英国兵は450名余います。

平時の感覚としてなら、これを救助するのは、海の男たちにとって当然の責務です。

しかし、平時と戦時では情況が異なりますし、あらゆる価値観は逆転します。

まず第一に、この海域には、英国潜水艦が多数徘徊しています。

救助のためには、艦を停止させなければなりませんが、これは自殺行為です。

なぜなら魚雷の的になるからです。

加えて人数の問題があります。

自艦の船員の倍以上の人数の敵兵を艦内に収容すれば、敵兵によって自艦の船員たちを皆殺しにされた上に、自艦を乗っ取られるおそれもあります。

ですから海上で敵兵を見つければ、それが漂流中であれなんであれ、全員殺すことが戦時の常識です。

酷いことと思われるかもしれませんが、そうしなければ、こちらが殺されてしまうのです。

そして、そうされても仕方がないというために、軍人は軍服を着用します。

それが戦時国際法のルールです。

自国の軍人を救助してもらっているのに、潜水艦が魚雷攻撃をしてくるはずがない、と考えることも平和ボケです。

潜水艦側から見れば、日本艦が英国兵を救助しているところなのか、屠殺している現場なのかの判断はつきません。

ですから英国潜水艦にしてみれば、まずは日本艦を魚雷で轟沈させて危険を取り去った上で、英国兵を救助することになります。

これが戦時の常識行動です。

しかし工藤俊作少佐(当時)は、艦長として、「雷」を停止させました。

そして敵英国水兵の救助を命じました。

そして敵兵を自艦に収容しました。

救助の最中、工藤艦長は、英国兵の体力が限界に達している事に気づきました。

そこで万一の警戒にあたらせていた要員も、すべて救助に投入しました。

一部の英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登ることすらできませんでした。

竹ざおを下し、いったんこれにしがみつかせ、艦載ボートで救助しようとするのですが、間に合わずに力尽きて海に沈んで行く者もありました。

工藤艦長は、下士官を海に飛び込ませ、気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛して艦上に引き上げさせています。

サムエル・フォール卿は次のように回顧しています。

 ***

「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。

ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下した。

私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。何度も自分の腕をつねった。

 ***

さらに艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景がありました。

日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵をまったく嫌悪せずに、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労った。

当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていた中で、「雷」の工藤艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用したのです。

戦闘海域における救助活動というのは、下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも自沈します。

実際、そういうケースは多々あるし、だからこそ相当に温情あふれる艦長でさえ、ごく僅かの間だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識です。

ところが工藤艦長は、艦を長時間停泊させただけでなく、全乗組員を動員して、洋上の遭難兵を救助したのです。

さらに工藤艦長は、潮流で四散した敵兵を探して終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助しました。

これらの行動は、戦場の常識ではありえないことです。

こうして、英国兵422名が救助されました。

救命活動が一段落したとき、工藤艦長は、前甲板に英海軍士官全員を集めて、英語で次のように訓辞しました。

「貴官らはよく戦った。

 貴官らは本日、

 日本帝国海軍のゲストである。」

そして艦載の食料の殆どを供出して歓待しました。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後、工藤俊作艦長の消息を捜し続けました。

 *

工藤俊作艦長は、明治3417日、山形県の生まれです。

工藤俊作艦長は、明治414月に屋代尋常小学校に入学。

明治43415日に第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、校長が全校生徒に第六潜水艇佐久間艇長の話を伝えたそうです。

校長は、責任感の重要性を話し、全校生徒は呉軍港に向かって最敬礼しました。

工藤俊作艦長はこの朝礼のあと、担任の先生に聞いたそうです。

「平民でも海軍仕官になれますか」

担任の先生は、米沢興譲館中学(現:山形県立米沢中学校)への進学を勧めたそうです。

そして工藤艦長は5年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿し、片道約3キロの道のりを毎日徒歩で通学し、念願の海軍兵学校に入学しました。

当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者は、きまって海軍兵学校への受験を志ました。

次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順ででした。

この時代、欧米の兵学校は、貴族の子弟しか入校できません。

全寮制であるし、学費も極めて高いのです。

経済的にも一般庶民が入学できるような学校ではなかったし、身分上の制限もあったのです。

ところが世界の中で、日本は学力と体力さえあれば、誰でも兵学校に入校できました。

しかも学費は全額国庫の負担です。

 英国のダートマス

 米国のアナポリス

 日本の江田島

この3つの海軍学校が、世界の三大海軍兵学校とされていたのです。

そして日本だけが、入学に際して身分の制限がありませんでした。

ただし、少し補足すると、陸軍は、当時の日本人であれば、誰もが入学出来たのに対し、海軍は「内地籍」を持っている者に入学が限られました。

つまり海軍は「外地籍」である台湾、朝鮮、満洲、南方の島々の日本人(当時は日本の一部です)は入校を認めていません。

理由は簡単です。

長期間海上で、艦という閉鎖された空間で起居をともにするのです。

何代にも渡る家系が明確で、家系に犯罪歴や疾病歴がなく、親族一同によって身元保証がしっかりされている者でなければ、海軍軍人として採用できなかったからです。

世界中、どんな民族にも善人もいれば悪人もいます。これは必ずいます。

いま善人でも、いざとなったら悪人になってしまう残念な人もいます。

問題は、そのいざという時に、悪行へと走ることを防ぐことができる社会体制が何代にも渡って確立されているかです。

日本は大家族制であり、戸籍もあり、いわば親族一同がそのひとりのための監視役になっています。

セガレが外地で悪事を働けば、戸主も親戚一同も、その責任を世間から追求されます。

ですから戦地で戦う日本軍人は、そこでひとりで戦っているわけではないのです。

その背後には、親戚一同の期待と監督がついていたのです。

これはとても重要な事です。

誰にでも弱い心はある。

それをどこまで封じ込めることができるかが大事だからです。

言い換えれば、個人が個々に独立しており、しかもその個人が名前までコロコロと変えられるような社会環境下では、犯罪を意図して誘発するようなものです。

工藤俊作氏は、大正9年に海軍兵学校に入学しました。

その前年の大正8年、鈴木貫太郎中将(後の総理大臣)が校長として赴任しています。

その鈴木貫太郎は、海軍兵学校校長に着任した大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新しています。

・鉄拳制裁の禁止

・歴史および哲学教育強化

・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

工藤ら51期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導する姿勢を身につけました。

また鈴木貫太郎校長は、明治天皇が、水師営の会見の際に

「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許したことを生徒に語りました。

海軍兵学校を卒業した工藤俊作氏は、駆逐艦「雷」の艦長として、昭和1511月着任しました。

工藤艦長は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されました。

その工藤艦長の着任のときの訓示です。

「本日より、

 本官は私的制裁を禁止する。

 とくに鉄拳制裁は厳禁する」

乗組員たちは、このような新艦長を、当初「軟弱」ではないかと疑ったそうです。

ところが工藤艦長には決断力があり、官僚化していた上官に媚びへつらうこともまったくない。

しかも工藤艦長は酒豪で、何かにつけて宴会を催しては部下たちと酒を酌み交わしました。

好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、それらは食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもしていたそうです。

工藤艦長は日頃から、士官や先任下士官に、

「兵の失敗はやる気があってのことなのだから決して叱ってはならない」

と繰り返しました。

見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。

このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告するようになりました。

2ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、

「オラが艦長は」と自慢するようになり、

「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていったといいます。

艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していきました。

そして、昭和16128日に大東亜戦争開戦。

開戦の二日後、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈しました。

英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助をしています。

このとき日本の航空隊は、「エクスプレス」が救助活動にはいると、一切これを妨害せず、それどころか手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送っています。

さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしていません。

こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させました。

フォール卿は語ります。

 ****

艦長とモーターボートに乗って脱出しました。

その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。

この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。

間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。

固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。

私たちは救命浮舟に5~6でつかまり、首から上を出していました。

見渡す限り海また海です。

救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食糧も飲料水もなかった。

この時、ジャワ海にはすでに一隻の米英欄連合軍艦船は存在しなかった。

しかし我々は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信していました。

一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。

死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていました。

翌日、われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。

仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。

軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行していました。

 ***

このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だったのです。

二番見張りと四番見張りからそれぞれ、

「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」

「漂流者400以上」

と次々に報告がはいりました。

工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前10時頃「救助!」と命じました。

フォール卿は語ります。

 ***

午前10時、突然200ヤード(約180M)のところに日本の駆逐艦が現れました。

当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。

そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えました。

 ***

工藤艦長は、日本海軍史上極めて異例の号令をかけました。

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」

工藤艦長は、浅野市郎先任将校に救助全般指揮をとらせ、谷川清澄航海長に後甲板を、田上俊三砲術長に中甲板における救助の指揮をとらました。

このときの模様を佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想しています。

****

筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。

敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。

五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。

それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。

その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。

この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。

『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。

彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。

艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。

当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。

その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。

****

浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。

甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。

この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込みました。

立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けました。

艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断しました。

「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいました。

一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みしました。

救助されたという安堵も加わって、その消費量は3トンにものぼったそうです。

便意を催す者も続出しました。

工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させています。

工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませました。

艦が走ると風も当たり心地よいからです。

ただし、これで全甲板の主砲は使えなくなりました。

フォール卿が語ります。

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私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。

『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。

ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。

駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。

水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです。

艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。

われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。

それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。

しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。

友情あふれる歓迎でした。

私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。

これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。

私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられました。

すると、キャプテン・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。

キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.

Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.

I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。

 私は英国海軍を尊敬している。

 今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)

『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました。

****

「雷」はもはや病院船のような情況となりました。

「雷」の上甲板面積は約1222平方メートル、この約60%は艦橋や主砲等の上部構造物が占めています。

実質的に使えるスペースは、488平方メートル前後です。

そこに、約390人の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できません。

するとなんと工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可したのです。  

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将は、この日夕刻4時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下しました。

舷門付近で見送る工藤艦長と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈りました。

高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然としています。

この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、

「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。

 非常に情の深い男であります」

と言って高橋司令長官を笑わせました。

高橋中将は

「それにしても、物凄い光景だ。

 自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、

 このような光景は初めてだ」

とニッコリ笑ったといいます。

救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡されました。

移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにしています。

工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしました。

これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表しました。

「エグゼター」の副長以下重傷者は担架で移乗した。

とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼター」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせました。

副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表しました。

その「雷」は、1944年(昭和19年)413日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦「ハーダー」(USS Harder, SS-257)の雷撃を受け沈没しました。

乗員は全員戦死です。

工藤艦長は、1942年に「雷」艦長の任を解かれたのち、海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務、海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられ、194411月から体調を崩し、翌年315日に待命となって終戦を迎えています。

戦後、工藤氏は故郷で過ごしていましたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移りました。

そして、1979年に胃癌のため死去。

生前、工藤艦長は、上記の事実を家族の誰にも、ひとことも話さなかったそうです。

わかる気がします。

なぜなら、「雷」がその後沈没しているのです。

そして「雷」とともに、多くの部下の乗組員たちが犠牲になっているのです。

亡くなった部下たちへの工藤艦長の愛が、工藤艦長の口を閉じさせたのです。

それが日本の武士の心得です。

ですから工藤艦長の家族がこの話を聞いたのはフォール卿からです。

日本は、武士として戦いました。

武士だから、みずから口からは、戦時中の多くを語りませんでした。

だからといって、彼らの名誉ある行動を汚すようなことを許すのは、わたしたち現代を生きる日本人のすべきことではありません。

 工藤俊作は、明治34年1月7日に山形県の高畠町(現在)に生まれ、米沢藩主上杉鷹山によって設立された「興譲館」の流れを汲む、興譲館中学に進む。ここで、兵学校進路指導担当の我妻又次郎(法学者我妻栄の実父)の薫陶を受ける。我妻は、自ら兵学校を受験するも、視力検査で不合格になり進路を変更した。我妻は、英語の授業中、工藤に盛んに英語で質問を浴びせ、真夏でも、工藤が少しでも襟元を緩ませると「服装を乱すな、これでも海軍士官になれるのか」と、容赦なく叱った。工藤は、中学時代からすでに我妻を通して、兵学校教育の訓練を受けていたと言えよう。

 海軍兵学校(51期)に入校した工藤は、3人の校長の指導を受けている。その内の1人が、後の終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎である。鈴木の教育方針は「武士道」であった。昭和20年4月7日、終戦工作を期待され組閣した鈴木は、5日後に米国大統領フランクリン・D・ルーズベルトが急逝すると、同盟通信を通じてその死を悼む談話を発表した。これを伝え聞いたノーベル文学賞受賞作家トーマス・マンは、鈴木のこの行為を「東洋の騎士道を見よ」と絶賛し賞賛した。

 工藤俊作少佐(当時)は、駆逐艦「雷(いかづち・1680トン)」の艦長としてジャワ沖海戦でその武士道精神を発揮することになる。昭和17年3月、英駆逐艦「エンカウンター」巡洋艦「エクゼター」二隻は、日本海軍に撃沈され、乗員約460人は24時間、漂流を続けていた。工藤は、報告を受けるや否や、戦闘海域にもかかわらず、迷うことなく「救助!」の命令を発し、救難活動中の国際信号旗をマストに掲げた。救助されたサムエル・フォール少尉(当時・後に駐スウェーデン大使)は「英海軍将兵は生存の限界に達し、軍医は自決用の劇薬を全員に配布していた。突然200ヤード(約180㍍)の所に日本の駆逐艦が現れた。当初、私は幻ではないかとと思い、わが目を疑った、そして、『日本人は野蛮人』との先入観から銃撃を受けるのではないかと恐怖を覚えた」後に語っている。

 220人乗りの「雷」は426人を救助した。日本側水兵の差し出す救助の竹竿に掴まりながらも、力つきて水没した英将兵も多数いた。見かねて、命令を無視し、自ら海に飛び込み救助する日本水兵もいた。この情景を見て、工藤は「重傷者は起重機と網でつり上げろ」と命令した。「雷」艦上は英将兵で一杯となったが、日本水兵は重油と汚物にまみれた英将兵の体を貴重なアルコールや真水で洗い、ウェスで拭き取り、着替えも用意した。艦上に天幕を張り、日よけにも気を配った。このため、一番砲は使えなくなった。工藤は、英国海軍士官を前に「諸君は勇敢に戦われた。今や日本海軍のゲストである。英国海軍に敬意を表する」と流暢な英語で語った。

 翌日、英国捕虜426名は、ボルネオ島パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡された。「エクゼター」の副長以下重傷者は、タンカーで移乗された。工藤は、負傷し横たわる「エクゼター」の副長をいたわり、「雷」艦内では当番兵に身の回りの世話をさせた。別れ際、「エクゼター」副長は、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明した。

 工藤は戦後、この事実を語ることはなかった。親族はもちろん工藤の夫人ですらこの事実を知らなかった。「サイレント・ネービー」の発露であろう。工藤が艦長を退任したのち「雷」は、西太平洋で米潜水艦の攻撃により、乗員約260人を乗せたまま沈没した。この悲劇が、工藤をして英兵救助劇の事実を封印させたのかもしれない。

 工藤は、終戦後自衛隊や大企業の招きにも一切応じることもなく、病院の事務の仕事をするなどして生計を立て、毎朝、戦死した部下や仲間の冥福を祈り仏前で合掌することを日課とした。享年78歳。

 親友の赤鬼のため、自らを犠牲にする青鬼との友情を描いた童話「泣いた赤おに」。作者の浜田広介は高畠町出身だ。その高畠町は、身をていして敵兵を救った2人の軍人も生んだ。まるで青鬼を思わせるような行動は、今も故郷で語り継がれている。

 1942年、現在のフィリピンに配属された旧日本陸軍中佐(当時)の神保信彦(1900~78年)は、ミンダナオ島第10独立守備隊司令官の高級副官を務めていた。神保は抵抗部隊の捕虜のうち、いずれ死刑になるであろう1人の男の助命嘆願を上官に申し出た。その男は、独立後に初代大統領となるマヌエル・ロハスだった。

 「ロハスの人間的魅力に惹

かれたんだろう」

 山形市で不動産管理業を営む甥

おい

の本間政博さん(66)は、神保の妹である母・清江さんから、そう伝え聞いた。

 神保は油絵の風景画を好み、転戦した中国の戦場でも悠然と描いていたという。「発砲音が聞こえると、銃弾をよけるように部下の前で踊り始め緊張を和ませたそうだ」。本間さんは、おおらかな人柄を物語るエピソードを披露する。

 来年5月の大統領選には、同名の孫、マヌエル・ロハス氏が立候補している。「不利な情勢の中、祖国のためにあえて戦ったそのDNAは、今の国民にも必要とされるはず」。本間さんは大統領選の行方に熱い視線を送る。

 海上に漂流する英国兵422人を救った旧日本海軍少佐(当時)の工藤俊作(1901~79年)も高畠町出身だ。

 42年3月、工藤が艦長を務める駆逐艦「雷

いかづち

」は、インドネシアのスラバヤ沖海戦で撃沈された英国の重巡洋艦と駆逐艦の乗組員を発見した。この時、工藤は敵潜水艦から攻撃される危険を顧みず、敵兵を収容するよう指示し、多くの人命を救った。

 工藤は戦後、親族にもこの一件を口にしなかったとされる。60年以上を経て、作家の恵隆之介氏が記した「敵兵を救助せよ!」の出版が契機となり、広く知られるようになった。

 「敵をも大事にするという武士道の表れだろう」

 浜田広介記念館(高畠町)の鈴木征治理事長(76)は語る。2010年には工藤を顕彰する碑が記念館の敷地に建てられた。

 工藤の母校・県立米沢興譲館高校では先輩の功績をたたえようと、13年に生徒が工藤の親族に聞き取りをしてリポートをまとめた。その記録はホームページで公開されている。

 「浜田の神髄は『愛と善意のヒューマニズム』」と鈴木理事長は考える。

 作家の浜田、陸軍の神保、海軍の工藤とそれぞれ立場は異なるが、「見返りを求めず、たとえいがみ合っても相手を尊ぶべきだとする心は、3人に共通しているのではないか」と思いを巡らせる。

フォール卿、墓参の願いを果たす

フォール卿、墓参を果たす

 工藤氏に対して、「人生の締めくくりとして、自身が生きているうちにお礼を言いたかった」と。工藤氏の消息を求めてフォール卿が初めて来日したのは、平成15年(2003年)10月であった。しかし、当時は、工藤氏の墓も、また、遺族も所在が分からずに、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 このフォール卿の願いを受けて、「敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」の著者・恵隆之介氏が、その3ヶ月後に、遺族を見つけ出した。その一連の様子を本年の1月1日の稿で紹介させていただいた。その折、恵氏から工藤俊作氏の話を初めて聞いた甥の七郎兵衛氏は、「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙されたそうだ。工藤俊作氏は己を語らずに世を去っていたのである。

 この実話は、フォール卿自身がタイムズ紙への投稿(1998年4月)の中でであえて語り、当時、天皇陛下の英国訪問に反対した同国内の一部世論を沈黙させたのであった。

 その工藤氏の墓参のために、この度は、フォール卿が墓籍のある薬林寺(埼玉県川口市)を訪れて本堂で焼香。フォール卿が、工藤氏の墓前に捧げた言葉は「Thank You」であった、と誌面に記されている。

 高齢、しかも車椅子姿のフォール卿を写真記事を通じて拝見する1人として、あるいは、これが最後の来日となるやもしれぬ、との予感は過ぎる。しかし、いつまでもご健勝であられることを願わずにおられない。以下、ここに、実話を本年1月1日の稿より紹介する。良識が、幾多の先人の功を見直され、日本の心を再考される。稚稿ながら、1つのご参考となれば、と。また、どこかでお役に立つ機会があれば幸甚である。

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死ぬ前にお礼を言いたかった

 英国から、はるばる感謝を述べるために来日したフォール卿(当時・フォール中尉)は、その日の出来事を振り返り、次のように語った。云く、「救助の旗が揚がった時は、夢かと思いました。彼ら(日本兵)は敵である私たちを全力で助けてくれたのです」と。また、「1人、2人を救うことはあっても、全員を捜そうとはしないでしょう。たとえ戦場でもフェアに戦う。困っている人がいれば、それが敵であっても、全力で救う。それが日本の誇り高き武士道であると認識したのです」と。

敵兵の命を救った艦長命令

 開戦翌年の1942年 (昭和17年2月27日)。ジャワ島北方のスラバヤ沖で、日本艦隊と英米蘭の連合部隊が交戦。連合部隊側は艦船15隻中11隻を撃沈で失い、残る4隻は逃走。撃沈した「エクゼター」(英海軍の巡洋艦)の乗組員多数が救命ボート等による漂流を続けていたが、生存の限界に達した3月2日に、日本海軍の駆逐艦「雷」が海面に浮遊する多数の英国兵を発見。敵潜水艦から魚雷攻撃を受ける危険性がある。その戦場でのことであった。その前には、日本の病院船の救命ボートが攻撃を受け、158名が命を落とす事態も起きていた。まさに、交戦最中の危険な海域での出来事であった。

 だが、「敵兵を救助せよ」。「雷」艦長の工藤俊作少佐のこの命令により、「雷」は「救難活動中」を示す国際信号機を掲げ、英国兵の救助に当たったのである。だが、長時間の漂流で体力を消耗している英国兵を海面から拾い上げる救助作業は難航。そこで、工藤艦長は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」との命令を発し、船内総力を挙げての救助に当たるよう指示したのである。

 ほぼ総員に近い兵員と、はしご、ロープ、竹竿(たけざお)等々。さらには、魚雷搭載用のクレーンまで、使用可能なすべての装備を投入した救助であった。「漂流者を全員救助せよ」。「漂流者は1人も見逃すな」。工藤艦長のさらなる命令により、「雷」は進行しては止り、すべての英国兵を救助したのであった。その数は実に「422名」。まさに「雷」の乗組員に倍する人数であった。さらに、「雷」の兵員はそれを厭(いと)わず、重油で汚れた英国兵士の身体をアルコールと木綿で丁重拭き取り、貴重な水と食料を提供したのであった。

 その翌日、ボルネオ停泊の病院船へ捕虜として引き渡すことになるが、救助した英国兵の中から将校たちを甲板に招き、工藤艦長は次の言葉を発している。「You had fought breavely.(諸官は勇敢に戦われた)」。「Now, you are the guest of the Imperial Japanese Navy(諸官は日本帝国海軍の(名誉ある)ゲストである」。艦長のこの言葉に、英国将校たちは敬礼を以って感謝の意を表したのであった。

敵兵を救助せよ!

英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長

単行本: 334ページ

出版社: 草思社 (2006/06)

ISBN-10: 4794214995

ISBN-13: 978-4794214997

発売日: 2006/06

価格: ¥ 1,785 (税込)

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書籍の概要

 一九四二年二月二八日のスラバヤ沖海戦のあと、日本海軍は、自艦を撃沈され海上を漂流する多数の連合国兵士を救助した。文字どおり武士道が発揮された瞬間であり、世界海戦史上でも稀な感動的な出来事なのだが、にもかかわらず、これまで戦史にのることもなく、ほとんど語られることがなかった。それは、工藤艦長が、戦後自衛隊にすすむこともなく、同期の人たちの勧めで就職することもなく、周囲に自らを語ることもなかったという事情もあるが、やはり東京裁判史観の影響があったことは否めまい。

 ところが、平成一五年、スラバヤ沖海戦で「雷」に救助された元英国海軍少尉フォル卿が来日、護衛艦の観閲式にも参列する。このとき、元海上自衛隊士官である著者はフォール卿から依頼を受け、すでに亡くなってはいたが、工藤艦長の消息を尋ねることになる。著者は数か月かけて、工藤艦長の墓地の所在地などを探りあてフォール卿に報告する。この間著者は当時「雷」の乗組員で存命の三名の人たちとも接触、工藤艦長の人となりと救助時の詳細を聞くことができたのである。これが著者が本書を執筆する動機となった。その三名とは、航海長の谷川清澄元少佐、艦長伝令の佐々木確治一等水兵、砲術手の勝又一一等水兵である。この人たちの記憶は鮮明で、これによって救助当日の状況は正確に再現されることになった。また、フォール卿へのインタビューと、工藤艦長への献辞が掲げられている自伝『マイ・ラッキー・ライフ』が証言を補強している。

(書籍紹介より引用) (小ブログで一部補正)

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美徳ゆえに「語らず」

 英国に戻ったフォール氏は、後にフォール卿となり、有能な外交官として活躍。晩節に差しかかった1996年に、自らの人生を一冊の著書にまとめた「マイ・ラッキー・ライフ」。その1ページ目には、謝辞を1人1人の関係者に述べ、そして、この本を、「私を救ってくれた日本帝国海軍の工藤俊作少佐に捧げる」と記している。

 来日した理由についてフォール卿は、「自分が死ぬ前に、誇り高き日本人である工藤艦長に、是非、お礼を言いたくて日本を訪れたのです」と。また、「この出来事は、日本人に対して私が持つ印象にずっと影響を与えました。深い尊敬と感謝の念を抱いています」と。だが、工藤俊作氏の消息はつかめなかったという。後に、同氏は1979年1月4日に生涯を閉じていたことが判った。

 工藤氏はこの日の出来事を家族にも語らなかった。その理由について、別の艦船の艦長になった後に「雷」が敵の攻撃で撃沈して全員が死亡。多くの部下と戦友を失った悲しみから終戦後は戦友と連絡を一切とらず、余生を過ごしたため、との指摘がある。ゆえに、一言も触れることは無かったとするものだ。だが、当時の「雷」の航海長を務めていた谷川清澄氏は、「(工藤氏ならきっと)俺は当たり前のことしかやってないんだ。別に、褒(ほめ)められることでもない、と言ったと思います。そういう人でした」と証言している。

 語らなかった真の理由は、やはり美徳ゆえに語らず、との工藤氏の信念にあったと謂えるのかもしれない。

戦史に詳しい方は彼の名前をご存知かもしれません。敵兵を400名以上救助したことで有名になった工藤俊作・海軍中佐について5回にわたりご紹介します。この話は2006年に一冊の本として出版されるまで、歴史の彼方に埋もれていました。

 

 太平洋戦争が始まった翌年の1942(昭和17)年227日から31日にかけて、インドネシアのジャワ島北部のスラバヤ沖で、日本海軍と英米蘭の連合艦隊により海戦が行われました。 

 このうち31日の戦闘で英巡洋艦「エグゼター」英駆逐艦「エンカウンター」が日本海軍により撃沈されました。英乗組員数百名は一日一晩漂流を続け、32日の翌日に偶然その場を通りかかった日本海軍の駆逐艦「雷」(いかづち)に救助されました。

 

 当時の駆逐艦「雷」の乗員は220名、その2倍に当たる英国軍人422名を救助する英断を下したのは、艦長の海軍中佐、工藤俊作でした。

 

 当時「雷」は戦闘行動中であり、敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける可能性のある水域を航行していたため、救助活動は極めて危険極まりない行為でした。また乗員を上回る大人数の捕虜を乗艦させるということは、艦で反乱を起こされる危険性がありました。

 それにもかかわらず、このような状況下で多数のイギリス兵を救助したことは、世界海軍史でも前例がない出来事と言われています。

 工藤艦長は実際のところ、海上に漂流者を置き去りにして行っても、誰からも非難されることはなかったのです。それほど工藤艦長の振る舞いは驚嘆に値する行為でありました。

彼は敵兵を友軍以上に丁重に扱い、後に捕虜として大戦を生き残った英国士官に感謝されることになります。

 その一人が英国海軍中尉・サムエル・フォール卿でした。彼は救助された後、インドネシアの捕虜収容所で終戦まで過ごし、戦後は外交官となった人物です。

フォール卿は80歳を超え人生の総決算として来日し、工藤元艦長を探しましたが見つからず、当時海自に勤務していた恵隆之介氏に調査を依頼します。
 後にその集大成が恵氏により、『敵兵を救助せよ!』という本として上梓され、世に知られることとなりました。

 それでは駆逐艦「雷」(いかづち)の艦長、工藤俊作はどんな人物だったのでしょうか。

  工藤俊作は1901(明治34)年に山形県置賜(おきたま)郡屋代(やしろ)村の農家に生まれました。しかし彼の祖父は寺子屋教育を受け士族に負けない程博識で、工藤はこの祖父から多大な影響を受けました。また屋代村も教育熱心で自立心旺盛な地域で、このような環境も工藤にとって良かったようです。

 工藤は米沢興譲館中学を経て、海軍兵学校の51期に入学しました。工藤の性格はかなり控えめで、兵学校の同期生からは「実にシャイな男であった」と言われています。しかし大柄な体躯で、39歳の時には身長185センチ、体重は95キロありました。

 兵学校卒業後には少尉候補生として練習艦隊に配属されましたが、中学で始めた柔道は強いし体格は大きいしで、誰も工藤にケンカをふっかける者はいませんでした。それでいて温厚な性格なので、「大仏」の異名を取っていました。

 1929(昭和4)年に工藤は28歳で、素封家の造り酒屋の娘、増淵かよと挙式を挙げました。夫婦仲は良く、工藤の中学時代の同級生の妻が、当時の二人をこう回想しています。

 「ご主人(工藤)は大きなお身体のところ、奥様はおやさしく、人形のように、うつくしくあられ、ほんとうにお似合いのご夫婦でした。傍らでながめておりましても、羨ましい程、奥様を大事になされました。」

 工藤夫妻には子どもはありませんでしたが、「この夫人に看取られて生涯を終えただけでも幸せであった」と、後に工藤の甥、七郎兵衛夫妻は語っています。

 工藤俊作少佐の専門は水雷で、水雷学校、砲術学校を経て駆逐艦勤務を送り、1940(昭和15)年11日、後に敵兵救助に当たる駆逐艦「雷」(いかづち)の艦長に着任しました。

 

 その頃の工藤艦長の様子です。

 

 「工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員はこの艦長にたちまち魅了されていく。艦長としては珍しく眼鏡をかけており、柔和で愛嬌のある細い目をしていた。とても猛禽類のような目をした駆逐艦艦長のイメージではないのだ。

 

 着任後の訓示も『本日より、本艦は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する』というものだった。乗組員は目を白黒させる。」

 

 この時代の下士官兵の間での体罰・いじめは当たり前で、トップもそれを見て見ぬ振りをしていましたから、これは極めて珍しい措置と言えます。

工藤の兵学校時代の校長は、後に最後の戦時内閣首相となった鈴木貫太郎でした。彼は鉄拳制裁を禁じ、自由闊達な気風を重んじていました。工藤も鈴木校長からの薫陶を受け、彼の方針に倣ったのではないでしょうか。

 

「工藤は、日頃士官や先任下士官に、『兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな』と口癖のように言っていた。

 

しかも、酒豪で、何かにつけて宴会を催し、士官兵の区別なく酒を酌み交わす。柔道は三段で得意技は跳ね腰。

 

着任後二か月経過すると『雷』の乗組員は僚艦の乗組員に『オラが艦長は・・・』と自慢するようになり、艦内の士気は日に日に高まっていった。

  このようにしてかもし出された艦内の雰囲気と、乗組員の練度の高さは、約一年後、ジャワ海での敵兵救助という歴史的偉業を果たすことになる。」

 

また工藤は、部下の能力を引き出すことに非常に長けていました。

「哨戒警戒中、見張りが流木を敵潜水艦の潜望鏡と誤って報告することがあった。

 艦長はこの時、決して怒ることなく、『その注意力は立派だ』と、報告した見張りを呼んで誉めていたのだ。

このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。

こうした『雷』の艦橋は、たとえ戦闘中でもほのぼのとした家庭的雰囲気があった。この結果『雷』の乗組員は、工藤を慈父のように慕い、『この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない』とまで公言するようになっていった。」 

 1942(昭和17)年31日、英巡洋艦「エグゼター」英駆逐艦「エンカウンター」はジャワ島のスラバヤ沖で日本海軍に撃沈され、海に飛び込んだ英国兵たちは波間に漂っていました。

 「救命浮船に5,6人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食料も飲料水もない有様でした。
 この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な状況に置かれていました。」(日本の駆逐艦「曙」が近づいてきたが、何もせずに去って行った。)

 194232日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇り始めるとまた猛暑の中にいました。

 仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある劇薬を携行しておりました。」

 漂流者が絶望的になりつつあった午前10時ごろ、目の前に突然日本の駆逐艦が現れました。これが工藤艦長の「雷」でした。駆逐艦は「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、敵兵救助の作業に入りました。

 しかし救助とはいえ、ジャワ海のこの海域で艦を停止させるのは危険きわまりない行為でした。事実、227日から31日まで、この海域では「敵潜水艦合計7隻撃沈」の報告を受けており、まさに潜水艦が頻繁に航行する通り道となっていました。

 そんなわけで、他の海軍艦艇は漂流者の救助には冷淡でした。34日、この海域を通過した駆逐艦「野分」(のわき)は敵兵を救助しようとしたところ、機動部隊司令部から移動命令が出たため、救助活動を中止しました。

 重巡「那智」の艦長は、危ない海域で漂流者を収容するため艦の停止さえ嫌がったという証言があります。しかし国際法上は、敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、漂流者を放置しても違法にはならないため、咎めを受けることはなかったのです。

 ところが工藤艦長の駆逐艦「雷」は、危険を承知で敵兵の救出作業を開始しました。彼は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」という、極めて異例の命令を発しました。

 「下士官兵の重症者の中には浮遊木材にしがみつき、『雷』に最期の力を振り絞って泣きながら救助を求めていた。その形相は誠に哀れであったという。顔面は重油で真っ黒に汚れ、被服には血泥がべったりと張り付いていた。」

 「(イギリス艦長たちの収容後)敵兵は『雷』にわれ先に殺到してきました。

 一時、パニック状態になったので、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、集団後方から何か号令をかけました。すると、整然となりました。

 『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。」

 「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が(負傷している)『エクゼター』副長、次に『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿(しんがり)が青年士官という順でした。

 当初『雷』は自分で上がれる者を先に上げ、重症者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。

 その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』(はるな)の乗組員として、カッター(手漕ぎボート)で沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対照的な情景を目にしました」 

 

 

海軍少尉の頃の工藤俊作

 前回にひき続き、駆逐艦「雷」が英国兵を救助している状況からです。

 

 「『雷』の乗組員の胸を打ったのは次のような光景であった。

 

 浮遊木材にしがみついていた重症者が、最期の力を振り絞って『雷』の舷側に泳ぎ着く光景であった。彼らはロープを握る力もないため、取りあえず『雷』の乗組員が支える竹竿を垂直に降ろし、これに抱きつかせて内火艇で救助しようとした。

 ところが、そのほとんどは竹竿に触れるや、安堵したのか、次々と力尽きて水面下に静かに沈んでいくのだった。

 

 日頃、艦内のいじめ役とされていた猛者たちも涙声となり、声をからして『頑張れ!』、『頑張れ!』、と甲板上から連呼するようになる。」

 

 「この光景を見かねて二番砲塔の斉藤光一一等水兵(秋田県出身)が、独断で飛び込み、立ち泳ぎをしながら重症英兵の身体や腕にロープを巻き始めた。

 

 先任下士官が『こら、命令違反だぞ!海中に飛び降りるな』と怒号を発したが、これに続いて二人がまた飛び込んだ。」

 

 「もう、ここまで来れば敵も味方もなかった。まして海軍軍人というのは、敵と戦う以前に、日頃狭い艦内で昼夜自然と戦っている。

 

 この思いから、国籍を超えた独特の同胞意識が芽生えたのであろう。日本海軍を恐れていた英国将兵も、残った体力のすべてを出して『雷』乗員にすがった。甲板上には負傷した英兵が横たわり、『雷』の乗組員の腕に抱かれて息を引きとる者もいた。」

 

 フォール卿も次のように回想しています。

 

駆逐艦「雷」に救出されたフォール卿。

 

 「私は、当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分たちに向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです。」

 

 「(日本兵は)木綿のウエス(ボロ布)と、アルコールをもってきてわれわれの身体に付いた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく。それは思いもよらなかったことだったのです。友情溢れる歓迎でした。

 

 私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴を支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処へ案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。」

 

 

 

救出された「雷」甲板上の英国兵士。

前回は駆逐艦「雷」(いかづち)が英国兵を救助し、彼らをとりあえず甲板上に収容し終わったところまで進みました。話はこれが最終回です

 

 間もなくイギリス士官たちは前甲板に集められました。何をされるのかと彼らには不安がよぎりましたが、工藤艦長がやってきて流暢な英語でスピーチを始めました。

 

 「諸君は勇敢に戦われた。今や諸君は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争を仕掛けたことは愚かなことである」

 

 ほかにも色々話したそうですが、フォール卿はこの部分だけはしっかりと覚えていました。

 

 「雷」はその後も海上の漂流者を探し続け、たとえ遠方でも生存者があれば救助し、最終的に救助者は422名となりました。これは「雷」乗員の約2倍に相当しました。甲板は立錐の余地もないほどのイギリス兵であふれていました。

 

 「雷」に救助された後の英国兵の様子です。

 

 「われわれは、自分たちにすら貴重この上もないものとしている真水や乾パンも、彼らに配給した。彼らはしかし、必要なだけ乾パンを取るとつぎつぎと箱をまわし、残ったのをそのままこちらに返してよこした。

 

英国は紳士と聞くが、まさしくそのとおり、われわれなら先をあらそって一個でも余分に掠(かす)めとろうとする根性をまる出しにする場面なのに、まったく整然とした行為だった。これにはわれわれは驚嘆した。」

 

「カンメンポーと生水を与えると、すっかり喜んで食うわ飲むわ。水は結局全員で3トンは飲んでしまいました。士官には特別待遇でご馳走が出ました。ただし、士官の態度は貫禄はありましたが、中には、呆れた者もおりました。」

 

「明るい英国水兵は、いかにも日本海軍に移籍したような気分になり、(重巡)『足柄』に手を振る者もいた。実際、佐々木(一水)の話では、日本風の入れ墨をした若い水兵の中には、このまま日本へ行けると思い、『フジサン』『ゲイシャ』と期待をこめて発言する者もいたという。」

 

 イギリスの救助兵たちは、一晩「雷」で過ごした後、翌33日にパンジェルマシンに入港しました。そして捕虜たちはオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡され、「雷」の任務は終了しました。

 

オランダ病院船「オプテンノート」に移乗する英国士官たち。

 昭和178月、工藤は「雷」から駆逐艦「響」艦長に就任することになり、同年11月には中佐に進級しました。「響」でも親父肌な工藤艦長は乗組員に慕われ、和気あいあいの雰囲気の中で勤務していましたが、そのうち体調を崩し、横須賀鎮守府の陸上勤務となりました。

 

工藤の海軍生活の後半は病気がちとなりました。彼の温和な性格にもかかわらず、機敏果敢な戦術が要求される水雷屋には合わなかったため、かなり無理をしていたと言われています。

 

戦後の工藤艦長は、クラス会の行事もすべて断り、死んでいった同期や部下の冥福を毎朝祈るという慎ましい生活を送っていました。

 

晩年の工藤夫妻

そして彼の死後、彼の甥である工藤七郎衛氏はその業績を知らされ、「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と、初めて彼の業績を知り落涙されたのでした。

 

工藤夫妻の墓は、現在の埼玉県川口市朝日の薬林寺境内にひっそりと建っているそうです。

 

「雷」航海長だった元部下が工藤夫妻の墓参に訪れたところ。彼の足もとにオーブが写っている。

13
6月

スラバヤ沖海戦

スラバヤ沖海戦 1942年(昭和17年)2月27日から3月1日

1942年(昭和17年)2月27日、スラバヤ港沖北東60浬で陸軍今村兵団と海軍陸戦隊が搭乗する輸送船50隻を護衛中、連合軍艦隊と遭遇する。これがスラバヤ沖海戦の始まりだった。

第三艦隊司令長官(蘭印部隊指揮官)高橋伊望中将
第五戦隊 司令官:高木武雄少将
重巡洋艦/ 那智 艦長:清田孝彦大佐
羽黒 艦長:森友一大佐
第七駆逐隊第一小隊(第二水雷戦隊臨時編入)
駆逐艦/ 潮 艦長:上杉義男少佐
漣 艦長:上井宏少佐
第二十四駆逐隊小隊(第二水雷戦隊臨時編入)
駆逐艦/ 山風 艦長:浜中脩一中佐 (エクセターの生存者67名を救助)
江風 艦長:若林一雄少佐 (ジャワの生存者37名を救助)
第二水雷戦隊 司令官:田中頼三少将
軽巡洋艦/ 神通(旗艦)艦長:河西虎三 大佐
第十六駆逐隊 司令官:
駆逐艦/ 雪風(司令艦) 艦長:飛田健二郎中佐(漂流中の約40名の連合軍兵士を救助)
時津風 艦長:中原義一郎中佐
初風 艦長:高橋亀四郎中佐
天津風 艦長:原為一中佐
第四水雷戦隊 司令官:西村祥治少将
軽巡洋艦/ 那珂 艦長:田原吉興 大佐
第二駆逐隊 司令官:橘正雄大佐
駆逐艦/ 村雨(司令艦) 艦長:末永直二少佐
五月雨 艦長:松原瀧三郎少佐
春雨 艦長:富田捨造少佐
夕立 艦長:石井汞少佐
第九駆逐隊小隊 司令官:佐藤康夫大佐
駆逐艦/ 朝雲 艦長:岩橋透中佐
峯雲 艦長:鈴木保厚中佐
別働隊(蘭印部隊主隊) 司令官:高橋伊望中将
重巡洋艦/ 足柄 艦長:一宮義之大佐
妙高 艦長:山澄貞次郎 大佐
主隊附属
駆逐艦/ 雷 艦長:工藤俊作中佐
電 艦長:竹内一少佐
曙 艦長:中川実 少佐
第四航空戦隊 司令官:角田覚治少将
空母/ 龍驤 艦長:杉本丑衛大佐
駆逐艦/ 敷波 艦長:岩上次一少佐

連合国軍指揮官:カレル・W・F・M・ドールマン少将

オランダ海軍
軽巡洋艦 デ・ロイテル(Hr. Ms. De Ruyter) 沈没
ジャワ(Hr. Ms. Java) 沈没
駆逐艦 コルテノール 沈没
ヴィテ・デ・ヴィット 2日、空襲によりスラバヤで撃沈
エヴェルトセン 1日、座礁
病院船 オプテンノール 拿捕、天応丸に改名、後の第二氷川丸

イギリス海軍
重巡洋艦 エクセター(HMS Exeter, 68) 沈没
駆逐艦 エレクトラ 沈没
エンカウンター(HMS Encounter, H10) 沈没
ジュピター(HMS Jupiter, F85) 沈没

アメリカ海軍第5任務部隊 司令官:A・H・ルークス海軍大佐
重巡洋艦 ヒューストン(USS Houston, CL/CA-30)艦長A・H・ルークス海軍大佐 バタビア離脱1日撃沈
駆逐艦 第58駆逐隊司令官T・H・ビンフォード中佐
ジョン・D・エドワーズ 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ポール・ジョーンズ 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ジョン・D・フォード 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
アルデン 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ポープ(USS Pope, DD-225)機関故障で残留、後にエクセターの護衛 沈没

オーストラリア海軍
軽巡洋艦 パース(HMAS Perth, D29) ウォーラー艦長 バタビア離脱1日沈没

3月1日、4隻(那智、羽黒、山風、江風)は脱出を図るイギリスの重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68)、駆逐艦2隻(ポープ、エンカウンター)と遭遇。 重巡2隻(妙高足柄)、駆逐艦2隻()および空母龍驤艦載機と共同で連合国軍艦艇3隻を撃沈した。 同戦闘で「山風」はエクセターに対し魚雷2本を発射、また敵軍の魚雷1本が艦底を通過したと報告している。各艦は弾薬をほとんど撃ち尽くしていた。 残燃料が乏しい中、「山風」はエクセターの生存者67名を救助。「江風」が救助していた蘭軽巡ジャワ(HNLMS Java)の生存者37名も「山風」に収容された。 また、山風と共に英艦隊と交戦した第6駆逐隊(《駆逐艦長工藤俊作少佐》、《駆逐艦長竹内一少佐》)も、多くの英国軍艦の乗員を救出した。「山風」は江風達と分離してマカッサルへ向かった。 3月3日と5日、24駆(山風、江風)はそれぞれ第五戦隊の指揮下を離れた。

3月1日午前2時、第五戦隊部隊は哨戒中に蘭軽巡ジャワ(28日夜間戦闘で沈没)の生存者を発見、37名が「江風」に収容された さらに昼間の戦闘で、日本艦隊は重巡洋艦エクセター、駆逐艦2隻(エンカウンター、ポープ)を撃沈した。弾薬の消耗著しい第五戦隊(那智、羽黒、山風、江風)は増援の別働隊(足柄、妙高、)および空母龍驤の艦載機と協力し、3隻を撃沈した。3月1日の戦闘で「江風」はエクセターに対し魚雷4本を発射、燃料も不足していた。 戦闘後、「山風」はエクセターの生存者67名を救助し[54]、第五戦隊が第二艦隊や第三艦隊に指示を仰いだ結果、捕虜を全員山風に集めての回航を下令された。 同艦は江風以下第五戦隊と分離してマカッサルへ向かった。3月5日、「江風」は第五戦隊の指揮下を離れて原隊に復帰し、重巡2隻(那智、羽黒)と分離した。

ジャワ (Hr. Ms. Java) は、オランダ海軍の軽巡洋艦。3月1日、哨戒中の第五戦隊(那智、足柄)および駆逐艦山風、江風は漂流するジャワの生存者を発見、江風は37名を救助した。

スラバヤ沖海戦で連合軍艦隊は大きな痛手を蒙り、残党は散り散りとなった。残党の一部、イギリス重巡洋艦エクセター (HMS Exeter, 68) と駆逐艦エンカウンター (HMS Encounter, H10) はスラバヤに逃げ込む。この2隻にポープが加わり、2月28日19時にスラバヤを出港してセイロン島に向かう。前述のように、ポープは魚雷を持っていたものの機関不調で2月27日から28日にかけての一連の海戦に参加しておらず、魚雷を使い切って逃げの一途しかなかった他のアメリカ駆逐艦とは違って護衛役となった。3隻は、予定では3月1日夜にスンダ海峡を通過することになっていたが、7時30分に早くも重巡洋艦那智羽黒および駆逐艦からなる日本艦隊を発見し、いったん避退するも攻撃されなかったことにより再度西進する。しかしながら、昼前になり別の強力な日本艦隊が出現したため3隻は応戦しながら逃亡を開始する。エクセターとエンカウンターは必死の反撃もかなわず相前後して沈没していったが、ポープはスコールに逃げ込んで一時の安息を得た。そのころ、バタヴィア方面の味方部隊の支援を命じられていた空母龍驤は、エクセター以下3隻の発見の報を受けて九七式艦攻6機を発進させていた。6機はエクセターの撃沈には間に合わなかったが、スコールから出てきたポープを発見して緩降下爆撃を開始する。ポープも右舷前方に九七式艦攻を発見して応戦を開始するが、艦後部の3インチ砲は75発撃ったところで故障を起こし、射撃不能となってしまった。6機の九七式艦攻は1機あたり250キロ爆弾1発と60キロ爆弾4発を搭載しており、60キロ爆弾を先に投下してから250キロ爆弾で止めを刺そうと目論んでいた。命中弾こそ得られなかったものの、1発がポープの艦尾左舷側に至近弾となり、この影響で推進軸が損傷して振動が甚だしくなって左舷主機が使用不能となった。ここにいたって艦の維持は難しくなり、総員退艦が令されて自沈措置が取られ、乗組員は脱出に移った。海上に漂うのみとなったポープに止めを刺したのは重巡洋艦足柄妙高、駆逐艦およびであり、集中砲火を受け間もなく沈没していった。ポープの乗組員のうち151名は雷に救助された。ポープは1942年5月8日に除籍された。

バタビアからスンダ海峡を経由してチラチャップへ向かおうとスンダ海峡へ達した1942年3月1日午前中、オランダの病院船オプテンノールを捜索していた日本海軍の駆逐艦曙と遭遇、砲撃戦となった。続いて偵察機に誘導された重巡洋艦2隻(第五戦隊高木武雄少将:那智、羽黒)、駆逐艦2隻(山風、江風)が出現、弾薬の不足していた第五戦隊は第三艦隊(司令長官高橋伊望中将:旗艦足柄)の重巡2隻(足柄、妙高)、駆逐艦の援軍を要請し、第五戦隊と第三艦隊の両者でエクセター、エンカウンター、ポープを挟撃した[6]。砲撃雷撃の集中攻撃を受けたエクセターは右に大きく傾き始め、13時30分に沈没した。さらに日本艦隊の追撃と空母龍驤の艦載機の支援により、エクセターの護衛にあたったエンカウンター (HMS Encounter)、ポープ (USS Pope, DD-225) も撃沈された。3月1日の戦闘で、第三艦隊(足柄、妙高)は20cm砲弾1171発(さらに足柄は12.7cm高角砲14発)、第五戦隊(那智、羽黒)は20cm砲弾288発、雷は12.7cm主砲279発、重巡4隻(那智、羽黒、足柄、妙高)は魚雷合計24本、駆逐艦3隻(雷、山風、江風)は魚雷合計11本を発射した。 なおエクセターの沈没時、妙高偵察機が雷の雷撃とエクセターの被雷・沈没を写真撮影した。この写真は写真週報第215号に掲載された。なお、大本営海軍報道部はエクセターがラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー の仇を討ったと宣伝している。

この日、駆逐艦の天津風が病院船オプテンノール護送のため戦闘海域を航行していた。するとエクセターの生存者多数を発見、第二水雷戦隊旗艦神通に救助を依頼すると漂流者に対し「別に救助船が来る」と英語で知らせ、その場を去った。 その後、エクセターの艦長のO・L・ゴードン大佐を含む798名の連合軍将兵は日本海軍により救助され、天津風の手によってボルネオ島バンジャルマシンに連行されていた病院船オプテンノートに引き渡された。また山風に救助されていたエクセターの乗組員67名は、マカッサルで蘭軽巡ジャワの生存者と共に海軍陸戦隊へ引き渡された。

この救助の時の事を、雷艦長伝令だった佐々木氏は「流石イギリス海軍士官」と思ったといい、次のように回想している。

「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクセター』副長(安全確認のため、艦長よりも先に上がった)、次に『エクセター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。」「当初『雷』は自力で動ける者を先に上げ、重傷者は後回しにしようとしたのですが、彼らは頑として応じませんでした。その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、これと対照的な情景を目にしました」

1942年(昭和17年)2月26日、原艦長の回想によれば天津風はスラバヤ方面でオランダの病院船オプテンノールを臨検し拿捕する。ただしオランダ側の記録では、26日のオプテンノールはスラバヤ港に停泊中であった。 2月27日、天津風以下第二水雷戦隊はスラバヤ沖海戦に参加して砲戦雷撃戦を行うが、第五戦隊(那智、羽黒)、第二水雷戦隊(神通、雪風、時津風、天津風、初風、江風、山風、潮、漣)、第四水雷戦隊(那珂、村雨、五月雨、夕立、春雨、朝雲、峯雲)各艦が発射した酸素魚雷はほとんど自爆してしまった。戦史叢書では『魚雷爆発尖が鋭敏だった事による早爆説』を採っているが、天津風水雷長は疾走中の魚雷同士が衝突して爆発した可能性を指摘している。戦闘後、天津風はオプテンノールをバンジャルマシン基地へ連行した(天津風水雷長の回想では3月9日拿捕)。 これは天津風の独自判断ではなく、第四水雷戦隊・第2駆逐隊(村雨、夕立)が臨検していたオプテンノールへの護送を引き継いだだけである。後日、オプテンノールは日本海軍に編入され特設病院船天応丸(最終的に第二氷川丸)となった。村雨(天津風)によるオプテンノールの臨検・拿捕・抑留そのものは『病院船は戦闘の妨害をしてはならない/重大な事情があり必要なときは病院船を抑留することができる』ため、国際法には違反していないとみられる。

2月28日、スラバヤ沖海戦における負傷兵救助のため航行中、日本の駆逐艦の臨検を受けた。第五戦隊(司令官高木武雄少将、旗艦那智)の記録では、オプテンノールを臨検したのは第四水雷戦隊(四水戦司令官西村祥治少将、旗艦那珂)所属の第2駆逐隊・白露型駆逐艦4番艦夕立となっているが、実際には白露型3番艦村雨(第2駆逐隊)である。 また原為一(当時、天津風駆逐艦長。海軍中佐)の回想では、同艦のオプテンノール臨検はスラバヤ沖海戦前の2月26日となっている。

当時、スラバヤ沖合で行動していた第二水雷戦隊(二水戦司令官田中頼三少将、旗艦神通)の報告によれば、陽炎型駆逐艦7番艦初風と陽炎型9番艦天津風(2隻とも第二水雷戦隊、第16駆逐隊所属)による臨検は2月28日夕方で、オプテンノールを臨検中の村雨(四水戦・第2駆逐隊)を発見後、第16駆逐隊第2小隊(天津風、初風)は一旦引き返す。だが第四水雷戦隊司令官西村祥治少将(那珂)より第二水雷戦隊(神通)に依頼があり、田中(二水戦司令官)は再び天津風を派遣してオプテンノールを抑留させた。天津風側の結論は「指定海域(バウエン島北方海域)に碇泊後、3月1日以後は自由行動を許可す」であった。 日本海軍の命令に、オプテンノールも一旦は従った。

しかし3月1日、オランダ側乗員は「救助活動ができないのならば指定海域にとどまる意味はない」と考え、オーストラリアのパースへ向かおうと航行を再開した。日本側はオプテンノールの行為を「指示を無視して逃亡する行為」と判断し、威嚇爆撃により停船させた。 水上機母艦千歳搭載の零式水上偵察機搭乗員(山崎力義、二飛曹)によれば、『朝方のこのこ戦闘海域に入ってきた病院船』が指定停泊地点から東方に向けて逃走しつつあるのを発見、英文で警告したが反応がなく、針路上に60kg爆弾2発を投下して機銃掃射をおこなったと回想している。 第三艦隊司令長官高橋伊望中将(旗艦足柄)は、指揮下の第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦神通)に対し「天津風をもってオプテンノールを護送せよ」と命じる。 この命令に従い天津風(第16駆逐隊)は同日夜にオプテンノールと再合流、同船をバンジャルマシンへ連行した。なお、病院船に対する臨検や航路指示は交戦国の権利として認められており、重大な事情があり必要があれば抑留することも可能だった。

3月2日夕刻、2隻(天津風、オプテンノール)はバンジャルマシンに到着、本船は同地で敷設艦蒼鷹に引き渡された。 なおスラバヤ沖海戦で沈没した連合軍艦艇生存者は、日本側駆逐艦(雷、電)等に救助されたあと、一部はオプテンノールに集められた。

2月下旬、第五戦隊・第二水雷戦隊・第四水雷戦隊とABDA艦隊の間にスラバヤ沖海戦が生起。同海戦終盤の3月1日、龍驤の攻撃隊(九七艦攻6機)は逃走する米駆逐艦ポープに水平爆撃を実施、ポープを航行不能にさせ46時間続いた海戦に終止符を打った。夕刻には艦攻6機がジャワ島中部セマラン港を爆撃し、1万トン級商船1隻を炎上・擱座させた。3月2日、連合軍哨戒艇を高射砲の水平射撃により撃沈した。

三月一日昼戦

以下の戦いを、連合軍側は第二次ジャワ海海戦と呼称している。日本軍側はスラバヤ沖海戦の一部「スラバヤ沖(第二次)海戦」と分類している。

3月1日午前4時、前述のように輸送船2隻が損害を受けるも、日本軍はクラガン泊地への敵前上陸に無事成功した。同時に航空偵察により、損傷した連合軍艦艇の動きを探っている。この時点で日本軍は、第一護衛隊(第四水雷戦隊)がクラガン泊地外方、第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊)は泊地北東側、第四潜水戦隊旗艦・軽巡鬼怒は泊地北西側、第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)はクラガン北方海面、主隊(足柄、妙高)、第六駆逐隊、曙(第七駆逐隊)は哨戒行動中だった。

同時刻、バウエアン島近海でエクセターは敵らしきものを発見し、これを反転回避する。これは日本軍第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)であった。この時日本軍はエクセターに気づかず、そのまま遠ざかっていった。しばらくしてエクセターは再反転すると西進を始めた。また日本軍別働隊でも、日本軍偵察機が報告した病院船オプテンノール護送のため、曙が艦隊から分離した。曙は『時津風からオプテンノール護送任務を引き継げ』と命じられていたという。

1103分、クラガン泊地沖を哨戒していた第五戦隊部隊4隻は距離28km先にエクセター隊を発見する。既に第五戦隊部隊は残弾が底をつきかけており、已む無く高木少将は蘭印艦隊司令長官高橋伊望中将の重巡2隻(足柄、妙高)に応援を要請すると共に弾着観測機を射出し、敵艦隊に触接させた。エクセターは戦闘を避けるため煙幕を展開しながら北西に転針し、戦域から離脱を図った。1127分、第五戦隊部隊は足柄、妙高の到着を待って追撃を開始した。

午前11時40分、エクセターは前方左、距離31,000mに新たな敵艦を発見した。同時刻、曙はエクセターを病院船オプテンノールと誤認し、停止命令を出した。イギリス軍重巡洋艦は14-18kmで砲撃した。第五戦隊もエクセターが艦首方向に射撃をしていたことを記録している。1140-1144分、曙は『(1140発、曙)敵らしき巡洋艦1、駆逐艦2見ゆ、我より方位120度』『我敵巡と交戦中』と報告し、救援を求める。第三艦隊は曙に対し、敵艦隊を誘致・拘束するよう命じた。

エクセターは曙が水平線の向こうに逃走したことで砲撃を停止した[115]。やがて左舷に新たな日本艦隊が出現、これは高木少将からの連絡を受け、戦場に急行していた高橋中将率いる主隊(足柄、妙高、雷)の別働部隊であった。エンカウンターに乗艦していたサムエル・フォール卿(当時中尉)は、まずイギリス艦隊の右前方に駆逐艦4隻が出現、続いて左前方に最上型重巡洋艦2隻が出現(妙高型重巡洋艦を誤認)、最後に左舷後方に最上型重巡洋艦2隻(これも妙高型の誤認)が出現したと証言している

エクセターは距離23000mで砲撃を開始した。足柄、妙高も応戦すべく、弾着観測のため零式水上偵察機を射出した。足柄、妙高は右砲戦を開始したが、2隻の弾着は非常に悪く、初弾斉射はエクセターから1000m離れ、次斉射は2000m離れた海面に着弾したという。逆にエクセターが足柄を夾叉する光景も見られた。だが、エクセターは数の上で不利であり東方への逃走を試みた。これを援護すべくエンカウンター、ポープが別働隊とエクセターの間に割って入り、1200前後に煙幕を展張した。煙幕の展開は効果的で、那智、羽黒はエクセターを見失う。状況を打破すべく、別働隊は曙、雷がエクセターに対して突撃をかけ、距離12,000mで砲撃を始めた。足柄と妙高はエクセターに酸素魚雷を発射したが、少なくとも魚雷2本が自爆し、全魚雷が命中しなかった。逆に第五戦隊部隊の方向へ魚雷が向かったので、那智、羽黒が回避する場面も見られた

東方への逃走を図るエクセター、エンカウンター、ポープはスコールの中に飛び込んだ。足柄はスコールのため射撃を中止した程である。しかし、エクセターは損傷のため無理をしても23ノットしか出せなかった。一方、日本艦隊は全艦が30kt以上の速力を発揮可能であった。短い嵐が去った時、エンカウンターは右舷9000に駆逐艦隊、エクセターの左舷18000mに”最上型巡洋艦”4隻、右舷後方の水平線上に”那智級巡洋艦”2隻を確認している。英艦隊は包囲されていた。

この絶望的な状況下においてフォール卿は「自分は生来楽天的な性格であったため、何とか日本艦隊の包囲網を抜けて脱出できると信じていました。方位盤の横で即的士官と冗談を言い続けていました。」と語っている

1224分、那智、羽黒が距離25kmでエクセターに対し射撃を開始した。エクセターも反撃し、那智の周辺に水柱が上がる。日本軍は英軍艦隊を包囲し、集中砲撃を浴びせた。午後12時30分、エンカウンターは山風、江風の砲撃により被弾し、舵故障を起こして速度が低下した。さらに那智、羽黒の方向に艦首を向けたため、第五戦隊は魚雷発射と誤認して回避運動を行っている。エンカウンターの士官によれば、主砲弾をほぼ撃ちつくしたところ、砲撃によりオイルポンプが破損して航行不能になったという

1240分頃、第十一航空戦隊(水上機母艦瑞穂)より、エクセター爆撃のため観測機11機を送るという連絡があった。日本艦隊は距離17kmにてエクセターに対し射撃を再開する。同時に魚雷戦を開始し、1250分ごろに那智が4本、羽黒が4本、山風が2本、江風が4本を発射した。すると、日本艦隊とエクセターの間に幅5-6m、高さ70-80mという巨大な水柱があがった

この時、フォール卿の回想では「我々は日本潜水艦の雷撃を避けるためにジグザグ航行をしておりました。(中略)艦隊は変針を繰り返し、33ノットの高速で走り、対潜警戒と回避行動を繰り返しました。さらに、『エンカウンター』は『エクセター』の周りに煙幕展張を行い、日本側の砲撃をそらそうとしました。しかも、日本軍の包囲網から『エクセター』を突破させようとして、『ポープ』と共に日本艦隊に4000ヤードまで接近し、魚雷発射の擬似運動を行いました。この時だけは日本艦隊が大きくループを描いて回避運動を行いました。この時、包囲網に隙間が生じましたが、僅かの間でした。このため、『エクセター』は包囲網から脱出できなかったのです。」となっていた

だが日本軍の魚雷が自爆しても、エクセターの命運は尽きようとしていた。20cm砲弾1発がまたもエクセターの缶室に命中し、火災が発生した。1254分、動力を全て失ったエクセターは航行不能となり、主砲も動かなくなる。エクセターの艦長O・L・ゴードン大佐は総員退去を命じ、乗組員は海に飛び込み始めた。エクセター総員退去と前後して駆逐艦の雷がエクセターに肉薄して魚雷を発射し、一本がエクセターの右舷に命中。続いて足柄、妙高も砲撃を開始した、止めを刺されたエクセターは1330分に右舷に転覆して沈没した。この時、妙高の偵察機がエクセターの被雷・沈没を写真撮影した。この写真は写真週報第215号に掲載された。大本営海軍報道部は、エクセターがラプラタ沖海戦で自沈に追い込んだポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーの仇を討ったと宣伝している。足柄、シュペー、エレクトラ、エンカウンターはかつてジョージ6世戴冠記念観艦式において一堂に会したことのある艦だった。

沈没寸前のエクセター

なおも日本軍は残ったエンカウンター、ポープの追撃を行った。羽黒、那智に至っては高角砲も用いて駆逐艦2隻を砲撃する。まず舵の故障を起こして速度の低下していたエンカウンターが狙われた。エンカウンターは集中砲火を浴び、完全に戦闘不能となった。この時の事をフォール卿は「『エンカウンター』は、砲弾を撃ち尽くした直後に日本艦隊の砲撃を受けました。その結果、宙に放り投げられる感覚がしました。」と語っている。降伏を進言する士官もいたが、モーガン艦長は交戦旗をおろすなと命令。モーガン艦長を含めて乗組員の殆どが脱出、エンカウンターは戦死者7名と共に1335、沈没した。ポープはスコールに逃げ込み、日本艦隊の追撃から離脱することに成功する。燃料が尽きかけていた第五戦隊部隊は第三艦隊の命令により、午後1時53分にポープの追撃を主隊(足柄、妙高)に任せて戦場を離脱した

ポープはロンボク海峡からオーストラリアに脱出しようと試みるが、妙高偵察機から逃れることができずにいた。ポープはボルネオ島南岸に沿って全速で東進していたが、1505分カリマタ海峡を南下中だった第四航空戦隊(軽空母龍驤)から発進した九七式艦上攻撃機6機(合計250kg爆弾6発、60kg爆弾24発装備)が来襲する。命中はしなかったものの左舷に落ちた至近弾により船腹に大穴が開き、左舷推進軸が捻じ曲がって使用不能となった。爆撃を受けたポープは回避運動により浸水が酷くなり、遂には艦尾が沈下しポープの艦長W・C・プリン中佐は艦を諦めて総員を退去させ、ポープには爆薬を仕掛けて自沈させることにした

全員が退去し終わった直後、主隊(足柄、妙高、雷、電)が接近してきて、航行不能のポープに砲撃を始めた。六斉射目で遂に一弾がポープに命中、1530、ポープは大爆発を起こすと僅か15秒で沈んでいった。また妙高の偵察機は、戦闘詳報とは違った光景を見た。艦隊型駆逐艦が航行不能になったポープに距離1000mまで接近し、魚雷3本を発射。全弾が外れ、その日本軍駆逐艦はさらに2本を発射。「ようやく1本が命中し、ポープ」爆沈したという。漂流したポープの乗員は3日後、1隻の日本駆逐艦に救助された。

 

3月2日午前5時49分、パウエマン島西73海里で浮上航行中のアメリカ潜水艦「パーチ」を発見、「潮」は潜航した「パーチ」に対して爆雷攻撃を実施し,3月3日午前6時52分、前日の爆雷攻撃で損傷し浮上航行中のパーチを再び発見し、攻撃。「パーチ」は沈没し、「潮」はパーチ乗員を救助し捕虜とした。捕虜は同日中にオランダ病院船「オプテンノール」(後日、天応丸/第二氷川丸と改名)に移された

 

捕虜を全員山風に集めての回航を下令された。 同艦は江風以下第五戦隊と分離してボルネオ島マカッサルへ向かった

13
6月

HMS Encounter

19
4月

Sir Cecil “Boy” Bouchier

サー・セシル・バウチャー
1895年英国に生まれる。第一次世界大戦中は英国陸軍砲兵隊員としてパレスティナに従軍。のちに空軍に入り、1918年には空軍士官となり、エジプトで空軍教官となる。1922年から25年にはファーンボローで、テストパイロット。1930年、空軍士官学校を卒業。1932年から1935年、インド空軍を創設。1940年のバトル・オブ・ブリテンでは、ロンドンのホーンチャーチ地区の指揮をとる。1945年のノルマンディ作戦ではスピットファイア戦闘機で空から上陸を支援。同年ビルマの司令官となる。1945~1948年、日本占領の英連邦空軍司令官として岩国に滞在。朝鮮戦争中は英国陸海空軍参謀総長直属の個人代表としてマッカーサー司令部に参加。1968年にドロシー・ブリトンと結婚し葉山に住む。1979年に死去。

  • Trumpeter, Honourable Artillery Company
  • Flying Officer – 2 February 1918 (Royal Flying Corps)
  • Flying Officer – 1 August 1919 (permamanent commission Royal Air Force)
  • Flight Lieutenant – 1 January 1926
  • Squadron Leader – 1 August 1935
  • Wing Commander – 1 July 1938
  • Group Captain – 1 December 1940
  • Air Commodore – 1 October 1946
  • Air Vice Marshal – 25 June 1949
  • Squadron Leader Cecil Arthur Bouchier, DFC appointed an Officer of the Order of the British Empire on 23 June 1936
  • Air Commodore Cecil Arthur Bouchier CBE, DFC appointed a Companion of the Order of the Bath on 14 June 1945
  • 9 March 1948 Air Vice Marshal Cecil Arthur Bouchier, CB, CBE, DFC is allowed to war decoration of Commander of the Legion of Merit conferred by the President of the United States in recognition of valuable services rendered in connection with the war.
  • Air Vice Marshal Cecil Arthur Bouchier, CB, CBE, DFC appointed a Knight Commander of the Order of the British Empire on 1 January 1953

ドロシー・ブリトン
本名 レィディ・バウチャー
1922年横浜生まれ。13歳で離日、アメリカや英国に住んだあと、1949年に日本へ帰り英国大使館に勤務。
『奥の細道』『銀のボンボニエール』『窓ぎわのトットちゃん』などを英訳。英語と日本語で多くのエッセイを発表。作詞、作曲、ハープの演奏家でもある。
1968年にサー・セシル・バウチャーと結婚したことにより、レィディ・バウチャーとなる。1979年のバウチャーの死後、彼の『回想録』を編集し、英国で出版。遺児のデレックと共に葉山で暮らしている。

 

英国空軍少将の見た日本占領と朝鮮戦争
少将夫人とレィディ・バウチャー編
サー・セシル・バウチャー(著) / 今井萬亀子(訳) / 加藤恭子、ドロシー・ブリトン(編)
価格:2000円+税
発行日:2008年12月
版型:A5判上製
ページ数:216頁
ISBNコード:ISBN978-4-7845-0583-8

連合国軍隊が敗戦国日本に進駐。
英連邦占領軍の司令部は岩国に。
その空軍司令官バウチャー少将が語るもうひとつの戦後史。
両大戦と朝鮮戦争に参戦したイギリス人の日本体験記!
【目次】
はじめに 編者ドロシー・ブリトン(レィディ・バウチャー)
Ⅰ 日本占領
Ⅱ 束の間の退役
Ⅲ マッカーサーと朝鮮戦争
Ⅳ 「バウチャーの書きっぷりが気に入ったね」
ウインストン・チャーチルとの一日
Ⅴ 聖クレメント・デーンズ
バウチャーが日本に出会うまで ドロシー・ブリトン
編者ドロシー・ブリトンについて 加藤恭子

訳者あとがき

 

英国の朝鮮戦争 29 July 2016.
Republic of Korea – 590,911

Colombia – 1,068

United States – 302,483

Belgium – 900

United Kingdom – 14,198

South Africa – 826

Canada – 6,146

The Netherlands – 819

Turkey – 5,453

Luxembourg – 44

Australia – 2,282

Philippines – 1,496

New Zealand – 1,385

Thailand – 1,204

Ethiopia – 1,271

Greece – 1,263

France – 1,119”

戦死 1078人
負傷 2674人
戦闘中に行方不明 3737人
捕虜 4439人

6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない

イギリス陸軍は、オーストラリア第34歩兵旅団を主力として広島県内の各所に駐屯し、ニュージーランド軍やイギリス領インド軍も多くを占めた。
イギリス海軍は、1945年以降に他の連合国軍艦艇とともに日本近海で作戦行動を行っていた、イギリス軍とオーストラリア軍がその多くを占めることになった。また、戦後シンガポールに戻った東洋艦隊の一部が呉におかれ、「HMSトライアンフ」や「HMS シーシュース」などの空母や駆逐艦、軽巡洋艦などが呉から朝鮮戦争に出撃している。
イギリス空軍は、岩国基地にオーストラリア空軍の「スーパーマリン スピットファイア」や「ノースアメリカン F-51D」などの戦闘機やダグラスC-47輸送機が配備されたほか、イギリス空軍の最新鋭のジェット戦闘機である「グロスター ミーティア」も配備されていた。これらの多くが朝鮮戦争時には金浦基地などに展開されている。

イギリス連邦占領軍のセシル・バウチャー少将

10
4月

香港の戦い

 

香港の戦い(Battle of Hong Kong, 1941年12月8日 – 12月25日)

日本側作戦名は「C作戦」。
第23軍を1941年(昭和16年)6月28日に新設 総司令官酒井隆中将
□第38師団 師団長佐野忠義中将(1941年(昭和16年)11月6日 -) 約15000名
歩兵第228連隊(名古屋)
  第3大隊第10中隊長若林東一中尉
歩兵第229連隊(岐阜)
歩兵第230連隊(静岡)連隊長東海林俊成(1941年4月1日-)
   第3大隊(岐阜)
□第1砲兵隊 指揮官北島驥子雄中将
 重砲兵第1連隊を基幹とする(24センチ榴弾砲8門、15センチ加農砲16門、15センチ榴弾砲6門、15センチ臼砲12門)
 独立重砲兵第2大隊および第3大隊の16門(八九式十五糎加農砲)を使用。
□第51師団歩兵第66連隊 連隊長荒木勝利(1941年7月28日-)基幹の荒木支隊
□飛行第45戦隊
□第1飛行集団の一部

支那方面艦隊
第2遣支艦隊(1941年12月10日時の編制)司令官新見政一中将 参謀長安場保雄少将
附属:広東方面特別根拠地隊・厦門方面特別根拠地隊
□第15戦隊:軽巡洋艦【五十鈴】艦長浦孝一大佐 砲艦【嵯峨】艦長小林一中佐 砲艦【橋立】艦長山代勝守中佐
□水雷艇【鵯】艇長山崎仁太郎大尉 水雷艇【鵲】艇長犬塚家孝大尉
□第4掃海隊

駆逐艦部隊

 
香港総督サー・マーク・アイチソン・ヤング
1940年11月18日
航空元帥ロバート・ポッファム大将の統率下にイギリス極東総司令部が設置され、香港駐屯軍もその指揮下に入る。
1941年9月10日、マーク・ヤング(Mark Aitchison Young)が香港総督及び全軍総指揮官として着任。

香港駐屯軍 – 総司令官:クリストファー・マルトビイ(Christopher Maltby)少将(総兵力 13,000名)
陸軍
香港歩兵旅団 – 旅団長:C.ワリス准将
ロイヤル・スコッツ連隊第2大隊(イギリス本国軍)
ミドルセックス連隊第1大隊(イギリス本国軍)
ラージプト第7連隊第5大隊(英印軍)
パンジャブ第14連隊第2大隊(英印軍)
カナダ旅団 – 旅団長:J.K.ロウソン准将
ロイヤル・ライフル連隊第1大隊、ウィニペグ擲弾兵連隊第2大隊
ロイヤル砲兵団 – 砲兵団長:マックロード准将
第8沿岸砲兵連隊
第12沿岸砲兵連隊他
海岸砲29門(高射砲は不足していた)
香港義勇軍 – 司令官:H.B.ローズ大佐、現地イギリス人、ポルトガル人、香港人からなる義勇軍(兵力 1,720名)
海軍 – 司令官:A.C.コリンソン(Commodore A.C. Collinson)代将
駆逐艦1隻
砲艦4隻(兵力 780名)
空軍 – 啓徳飛行場 空軍機と義勇軍使用の民間機あわせて12機が炎上、2機が大破し全飛行機を失う
作戦機5機(ヴィッカーズ ヴィルドビースト 3機、スーパーマリン ウォーラス 2機)(兵力 100名)

降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた「ザ・ペニンシュラ香港」の3階で行われた。

香港は香港島と九龍半島の租借地からなっていて要塞となっていた。約150ヵ所の堅固な拠点を保有すると言われていたが拠点数や装備は予想の4割程度だった。
九龍半島の要塞地帯ジン・ドリンカーズ・ライン
12月2日、仏山、三水付近に展開していた第38師団ほかは英支国境線に夜間のみ前進開始、先遣隊の歩兵第229連隊、第230連隊、山砲兵第38連隊基幹は英支国境に展開していた。
12月8日、早朝進攻命令、陸軍飛行隊啓徳飛行場攻撃、第2遣艦隊海上封鎖、陸軍先遣隊深圳東方地区突破、
12月9日、1030時酒井中将攻撃準備に関する部署を命令、
□第38師団は中国本土の新界地区からイギリス軍を攻撃、
□第230連隊はジュビリー貯水池、
□第228連隊は城門要塞、
□第229連隊は沙田峠を目指し主防衛線を突破下令

第228連隊第3大隊第10中隊長若林東一中尉は第10中隊と城門貯水池南方的陣地標高255高地を偵察中、敵陣兵力配備が手薄であると判断し、夜敵のトーチカ陣地に突入奪取してしまった。255高地>>341高地>>366高地と256高地
12月11日、第230連隊は青衣島占領
12月12日、第229連隊は啓徳飛行場占領、イギリス軍を香港島へ撤退させる。
日本軍の戦死22名、戦傷121名。イギリス軍は遺棄死体165、捕虜49名
12月13日、第23軍は軍使を派遣し降伏勧告を行うがヤング総督拒否、日本軍は香港に砲爆撃開始、
12月14日、九龍半島の掃蕩完了
12月15日、第一砲兵隊は九龍半島に対面している海岸要塞を一斉に砲撃、3日間で2000発を撃ち込んだ。
12月16日、第11航空艦隊第21航空戦隊陸攻45機による香港空爆
12月18日、第23軍は再び降伏勧告を行ったがイギリス軍降伏拒否した。
2100時第38師団は兵力を2分して海峡を渡り香港島に上陸
□鯉魚門方面から同島北東部へ上陸、ニコルソン山の要塞(日本軍部隊は600名の死傷者)、山麓の香港ホテル、を攻撃
□赤柱半島(守備1500名、海岸砲台や高射砲陣地)を二個連隊で攻略したが、どうしても陥落させる事は出来なかった。
12月19、20日、戦闘は混戦状態
12月21日、日本軍は敵を各処で撃破、ニコルソン山貯水池給水施設占領
12月25日、(ブラッククリスマス)1700時最後の島西部の陣地で抵抗していたイギリス軍降伏

香港島内における戦いで、日本軍は戦死683名、戦傷1,413名を出した。イギリス軍の戦死は1,555名、捕虜は戦闘間1,452名、戦闘後9,495名(内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。)であった。

10
4月

HMS Tamar

全長: 98 m
進水: 1863年6月

9
4月

820 Naval Air Squadron

HMS Indefatigable

Fairey Barracuda II
Grumman TBF Avenger
10 July 1944 – March 1946
9
4月

No. 64 Squadron RAF

9
4月

No. 62 Squadron RAF

9
4月

No. 221 Squadron RAF

9
4月

No. 79 Squadron RAF

9
4月

No. 73 Squadron RAF

9
4月

No. 4 Squadron RAF

9
4月

No. 36 Squadron RAF

9
4月

No. 242 Squadron RAF

9
4月

No. 17 Squadron RAF

9
4月

No. 11 Squadron RAF

9
4月

No. 100 Squadron RAF

9
4月

No. 605 Squadron RAF

9
4月

No. 84 Squadron RAF

9
4月

H.M.S. Indomitable.

1944年6月12日に空母ヴィクトリアスと共にイギリスを離れ、地中海経由で7月7日にコロンボに到着した。東洋艦隊に編入されたインドミタブルは、8月19日にヴィクトリアス、戦艦ハウなどと共に出撃し、8月24日にスマトラ島空襲を行った。(バンクェット作戦)。これ以降、9月18日にスマトラ島空襲、10月17日と19日にニコバル諸島空襲を実施した。

太平
洋艦隊が新たに編成されると、インドミタブルもそれに加わり、スマトラ島の製油所攻撃(ロブソン作戦、レンティル作戦、メリディアン作戦)に参加後沖縄戦に参加した。1945年5月4日、インドミタブルは特攻機の突入を受けた。5月20日、駆逐艦クィリアムと衝突。

1945年11月、インドミタブルはイギリスに戻った。

HMS Indomitable

Seafire III of No.894 Naval Air Squadron flown by Sub Lt RH Reynolds, HMS Indefatigable, Okinawa, 1 April 1945.

Hellcat II of No.1839 Naval Air Squadron flown by Sub Lt ET Wilson, HMS Indomitable, Okinawa, 6 April 1945.

 

1944年12月50機第857飛行隊(アベンジャーII×21)
第1839飛行隊(ヘルキャットI×15)
第1844飛行隊(ヘルキャット×14)

1945年1月50機第857飛行隊(アベンジャーII×21)
第1839飛行隊(ヘルキャットI×15)
第1844飛行隊(ヘルキャットI×14)

1945年2月44機第857飛行隊(アベンジャーII×15)
第1839飛行隊(ヘルキャットI・II×15)
第1844飛行隊(ヘルキャットI・II×14)

1945年5月48機第857飛行隊(アベンジャーII×15)
第1839飛行隊(ヘルキャットI・II×17)
第1844飛行隊(ヘルキャットI・II×16)

9
4月

No.1836 Naval Air Squadron

Corsair II of No.1836 Naval Air Squadron flown by Sub Lt DJ Sheppard, HMS Victorious, Sumatra, January 1945.

 

1944年3・4月第1836飛行隊(コルセア×14機)
1944年7,8,(コルセア2×14機)
9,10,11,月(コルセア2×18機)
1945,1 (コルセア2×16機)
1945,2・7(コルセア2×18機)

【H.M.S. Victorious】はイギリス海軍の艦艇として沖縄戦で日本軍の特攻機の攻撃を受けたが、戦艦のそれに匹敵する76ミリ厚の装甲が功を奏し14名が戦死したものの、沈没は逃れた。
人的損害
死者85人
戦傷者82名
物的損害
空母5隻損傷
航空機98機

9
4月

1949 YOKOHAMA PHOTO

21
3月

Royal Air Force

surnameforenamegravereference
ALMEROTHALBERT ARTHUR STURRYBrit. Sec. A. A. 4.
BENNETTGEORGEBrit. Sec. A. A. 14.
BURRYFREDERICK CHARLESBrit. Sec. C. A. 16.
COPEKENNETH FRANKBrit. Sec. G. C. 2.
FRYERLEONARD EDWARDBrit. Sec. G. C. 6.
LAWLEYHENRY THOMAS HERBERTBrit. Sec. J. B. 5.
PICKLESSTANLEYBrit. Sec. G. D. 5.
SINGLETONERIC NORMANBrit. Sec. E. C. 10.
SMEATONGEORGEBrit. Sec. G. D. 11.
SONEWILLIAMBrit. Sec. G. B. 6.
WAKESIDNEY CHARLESBrit. Sec. L. C. 9.
FOREMANLEONARD WILLIAMBrit. Sec. R. C. 1.
HARDSPETERBrit. Sec. R. B. 16.
KITEEDWARD JOHNBrit. Sec. R. D. 3.
QUICKDESMOND O'CONNOR (CHUNKY)Brit. Sec. R. B. 6.
ALEXANDERDAVID HUGHBrit. Sec. R. C. 15.
COOKEWILLIAM MARKLANDBrit. Sec. R. C. 7.
GRAYANTHONY JAMESBrit. Sec. R. B. 8.
GIBSONWALTERBrit. Sec. N. C. 5.
PULLEYHENRY JACKBrit. Sec. H. D. 3.
AINDOWGILBERT HENRYBrit. Sec. A. A. 1.
BRANDONCHARLES JAMESBrit. Sec. J. D. 13.
FRYCHARLES ERNESTBrit. Sec. K. A. 7.
SLATERJOHN FRANCISBrit. Sec. E. C. 13.
STANNARDROBERT PATRICKBrit. Sec. J. C. 3.
SYRETTVICTOR EDWARDBrit. Sec. H. D. 1.
TAYLORFREDERICK EDMUNDBrit. Sec. J. C. 13.
TUCKERARTHUR LEONARD FREDERICKBrit. Sec. L. C. 6.
HATHERALLARTHUR MATTHIASBrit. Sec. G. B. 15.
MILLARDGEORGE SAMUELBrit. Sec. G. D. 16.
BELFIELDERICBrit. Sec. A. A. 13.
DOWDINGFRED CHARLESBrit. Sec. G. A. 11.
PARRYIVOR GLYNNBrit. Sec. G. A. 8.
RUSSONARTHUR FREDERICKBrit. Sec. E. C. 1.
TASKERJOHN NORMANBrit. Sec. J. C. 10.
WHITFIELDWILLIAM HARRY HERBERTBrit. Sec. Q. B. 3.
SMITHGEORGEBrit. Sec. E. C. 14.
FORRESTERALEXANDERBrit. Sec. Q. A. 4.
CROSSEDWARDBrit. Sec. J. A. 7.
OUTENWILLIAM THOMASBrit. Sec. A. C. 1.
BONGARDHARPER MERVYNBrit. Sec. C. A. 6.
BURRLUCKALFRED OWENBrit. Sec. N. C. 12.
GORRINGETHOMAS E.Brit. Sec. G. B. 2.
HADRICKFREDBrit. Sec. Q. C. 3.
HEWITTARTHUR GILBERTBrit. Sec. C. B. 7.
HOLMESKEITH WHEATCROFTBrit. Sec. C. B. 15.
MERRALLSLESLIEBrit. Sec. L. B. 8.
PALMERGEOFFREY CLIFFORDBrit. Sec. B. C. 3.
REGANJOHN BAILEY (JACK)Brit. Sec. C. C. 8.
RICHARDSONLAWRENCE WILLIAMBrit. Sec. C. C. 12.
SHAWRONALD FRANCISBrit. Sec. N. A. 14.
STREETWILLIAM CHARLES KNAPPBrit. Sec. J. C. 7.
ACLANDSIMON JOHN DYKEBrit. Sec. P. A. 14.
BAILEYTHOMASBrit. Sec. A. A. 8.
BASSNETTHERBERTBrit. Sec. E. A. 1.
BAYLEYSAMUEL JOHNBrit. Sec. R. D. 11.
BENNETTCHARLES WHITFIELDBrit. Sec. E. D. 15.
BISHOPHAROLD WILLIAMBrit. Sec. B. D. 3.
BISHOPHARRY WILLISBrit. Sec. C. A. 2.
BOARDMANCLIFFORDBrit. Sec. R. D. 8.
BONG SYE CHONGBrit. Sec. J. D. 11.
BRASSGEORGE WILSONBrit. Sec. J. D. 14.
BREACHCYRIL WALLACE FREDERICKBrit. Sec. C. A. 8.
BRENCHLEYHAROLD BRYAN SPENCERBrit. Sec. J. D. 16.
BRIGHTWELLFREDERICK CHARLES GUYBrit. Sec. G. A. 15.
BROOKEREDWARD GEORGEBrit. Sec. G. D. 15.
BRUCEJAMES CHISHOLMBrit. Sec. C. A. 14.
CAMPBELLERNESTBrit. Sec. G. C. 1.
CHAMBERSGEORGE HENRYBrit. Sec. Q. C. 12.
CHISHOLMDAVID GALTBrit. Sec. E. A. 12.
CHUDLEIGHSIDNEY JOHNBrit. Sec. R. D. 1.
CLARKSONFREDBrit. Sec. Q. B. 10.
COKERHENRY JOHNBrit. Sec. J. A. 1.
COTTONROY DOUGLASBrit. Sec. R. C. 5.
CURNOWCECILBrit. Sec. B. A. 5.
DANEHENRYBrit. Sec. J. A. 11.
DANIELSEDWARDBrit. Sec. G. C. 4.
DAVIESARTHUR REGINALDBrit. Sec. G. C. 5.
DAVIESWILLIAM RAYMONDBrit. Sec. J. A. 12.
DAYISAAC JOHNBrit. Sec. B. A. 12.
DIXONJOHN WALTERBrit. Sec. P. C. 4.
DUFFDANIEL JAMES STEWARTBrit. Sec. G. C. 3.
DURKWILFRID BRAZIERBrit. Sec. G. A. 10.
ELLIOTTHENRYBrit. Sec. L. A. 5.
EVANSWILLIAM JOHNBrit. Sec. L. A. 7.
FOOTWILFRED WILLIAM JOHNBrit. Sec. N. B. 5.
FRANKLINCHARLES ARTHURBrit. Sec. Q. A. 8.
GANNONJOHN DANIEL BERTBrit. Sec. R. D. 12.
GESSGEORGE GILBERTBrit. Sec. A. B. 4.
GIBBSRONALD JOSEPH G.Brit. Sec. G. A. 12.
GIBSONWILLIAMBrit. Sec. G. A. 13.
GOODALLCHARLES ALEXANDERBrit. Sec. M. A. 2.
GRAYWILLIAMBrit. Sec. B. A. 8.
GREAVESWILFREDBrit. Sec. G. C. 7.
HALEYHAROLD EDWARDBrit. Sec. G. C. 8.
HAMILTONROBERT WISHARTBrit. Sec. C. C. 7.
HEPPERSTALLWILLIAMBrit. Sec. C. B. 8.
HIGGINBOTHAMJAMES EDWARDBrit. Sec. G. C. 9.
HILLSDENIS HAROLDBrit. Sec. C. B. 11.
JACKSONHARRYBrit. Sec. E. B. 9.
KENWRIGHTJAMESBrit. Sec. G. C. 10.
KWEK TUCK SEEBrit. Sec. P. A. 2.
LANCASTERGEORGEBrit. Sec. J. B. 2.
LANSDELLMARTIN GORDONBrit. Sec. J. B. 3.
LAWLEYPATRICK LOFTUS HUNTERBrit. Sec. J. B. 6.
McCALLUMJOHNBrit. Sec. R. C. 3.
MACKERNEST WILLIAMBrit. Sec. J. B. 11.
MALKINREGINALD ALEXANDERBrit. Sec. G. D. 9.
MARVENSIDNEY CHARLESBrit. Sec. H. D. 8.
MORRISONHUGHBrit. Sec. R. D. 2.
MOSESROBERTBrit. Sec. G.C. 11.
MYERSHAROLDBrit. Sec. R. D. 5.
NELSONERNEST WILLIAMBrit. Sec. Q. A. 12.
NG HONG SEAHBrit. Sec. C. B. 16.
NOBLEAUSTIN BLACKBrit. Sec. R. A. 8.
ORCHARDSIDNEY ALBERTBrit. Sec. Q. C. 14.
PARKERHAROLD THEOPHILUSBrit. Sec. G. C. 12.
POLEYKETTALBERT FRANCISBrit.Sec. A. C. 11.
PORTSMOUTHALEXANDERBrit. Sec. A. C. 13.
POULSONWILLIAM THOMASBrit. Sec. G. A. 9.
POUNDERWINSTONBrit. Sec. A. C. 15.
PRATTWILLIAMBrit. Sec. A. C. 16.
PRICEERIC CYRILBrit. Sec. G.C.13.
PRINCEWILLIAM JOHNBrit. Sec. G. C. 14.
REESTHOMAS HOWARDBrit. Sec. C. C. 2.
REGANCHARLESBrit. Sec. C. C. 4.
RENNIEWILLIAM TAYLOR COGHILLBrit. Sec. P. D. 10.
ROBBJAMES EMSLIEBrit. Sec. C. C. 13.
ROBINSONARTHUR DAVIDBrit. Sec. G. A. 14.
RUSSELLCHARLES BRUCEBrit. Sec. G. C. 5.
RYDERWILLIAMBrit. Sec. E. C. 2.
SCOTTEDWARDBrit. Sec. G. A. 7.
SEEJIMBrit. Sec. H. B. 15.
SIMPSONROBERT ARTHURBrit. Sec. H. D. 2.
SKELTONGEORGE ROBERTBrit. Sec. E. C. 11.
SMITHFRANCIS JOHNBrit. Sec. H. C. 1.
SMITHJOHN CHARLESBrit. Sec. G. C. 16.
STRATFORDALBERT CHARLESBrit. Sec. H. C. 2.
SUTCLIFFEELLISBrit. Sec. N. C. 4.
TAN GEOK HYEBrit. Sec. G. D. 6.
TAN TEIK WAHBrit. Sec. J. C. 9.
TERRYWALTER PATRICKBrit. Sec. H. B. 14.
THOMASHILTON LLOYDBrit. Sec. H. D. 10.
THOMPSONTHOMAS PERCYBrit. Sec. N. A. 13.
WAINESFRANCIS HERBERTBrit. Sec. L. C. 8.
WEBBERGEORGE RICHARDBrit. Sec. M. C. 14.
WILLIAMSONARTHURBrit. Sec. Q. B. 5.
WOODCHARLES HAROLDBrit. Sec. H. C. 3.
WRIGHTOSWALD ALLANBrit. Sec. A. D. 6.
YATEMANJOHN FREDERICK OWENBrit. Sec. H. C. 4.
19
3月

HMS Redstart (M 62)

HMS Redstart (M 62)

Minelayer of the Linnet class

Navy The Royal Navy
Type Minelayer
Class Linnet
Pennant M 62
Built by Henry Robb Ltd. (Leith, U.K.) : Whites M.E.
Ordered 22 Mar 1937
Laid down Sep 1937
Launched 3 May 1938
Commissioned 1 Nov 1938
Lost 19 Dec 1941
History HMS Redstart was scuttled at Hong Kong on 19 December 1941 to prevent her capture by the Japanese

Commands listed for HMS Redstart (M 62)

Please note that we’re still working on this section.

Commander From To
1 Lt. Alfred Frank Jackson, RN Oct 1938 Oct 1940
2 Lt.Cdr. (retired) Henry Charles Sylvester Collingwood Selby, RN Oct 1940 19 Dec 1941
19
3月

HMS Tern

 

River gunboat of the Tern class

Navy The Royal Navy
Type River gunboat
Class Tern
Pennant T 64
Built by Yarrow Shipbuilders Ltd. (Scotstoun, Scotland)
Ordered 14 Jan 1926
Laid down
Launched 29 Aug 1927
Commissioned Nov 1927
Lost 19 Dec 1941
History Scuttled at Hong Kong on 19 December 1941 to prevent her capture by the Japanese.

Commands listed for HMS Tern (T 64)

Please note that we’re still working on this section.

Commander From To
1 Lt.Cdr. Marcus Henry Reginald Crichton, RN 15 Mar 1938 early 1941
2 T/Lt. John Douglas, RNR 1941 19 Dec 1941
19
3月

S.S. Willesden

19
3月

スラバヤ沖海戦

スラバヤ沖海戦
1942年(昭和17年)2月27日から3月1日

連合国軍指揮官:カレル・W・F・M・ドールマン少将

オランダ海軍
軽巡洋艦 デ・ロイテル(Hr. Ms. De Ruyter) 沈没
ジャワ(Hr. Ms. Java) 沈没
駆逐艦 コルテノール 沈没
ヴィテ・デ・ヴィット 2日、空襲によりスラバヤで撃沈
エヴェルトセン 1日、座礁
病院船 オプテンノール 拿捕、天応丸に改名、後の第二氷川丸
イギリス海軍
重巡洋艦 エクセター(HMS Exeter, 68) 沈没
駆逐艦 エレクトラ 沈没
エンカウンター(HMS Encounter, H10) 沈没
ジュピター(HMS Jupiter, F85) 沈没
アメリカ海軍 第5任務部隊 司令官:A・H・ルークス海軍大佐
重巡洋艦 ヒューストン(USS Houston, CL/CA-30)艦長A・H・ルックス大佐 バタビア離脱1日撃沈
駆逐艦 第58駆逐隊司令官T・H・ビンフォード中佐
ジョン・D・エドワーズ 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ポール・ジョーンズ 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ジョン・D・フォード 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
アルデン 燃料不足によりスラバヤへ帰投ポートダーウィン
ポープ(USS Pope, DD-225)機関故障で残留、後にエクセターの護衛 沈没
オーストラリア海軍
軽巡洋艦 パース(HMAS Perth, D29) ウォーラー艦長 バタビア離脱1日沈没

3月1日に
第二十四駆逐隊小隊駆逐艦江風がジャワ乗組員37名を救助

3月1日に第六駆逐隊「雷」「エクセター」の乗組員376名を救助

32日、英駆逐艦「エンカウンター」等の乗組員422名を救助し、翌日、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に捕虜を引き渡した。

19
3月

香港駐屯軍

香港駐屯軍 – 総司令官:クリストファー・マルトビイ少将(総兵力 13,000名)
• 陸軍
• 香港歩兵旅団 – 旅団長:C.ワリス准将
• ロイヤル・スコッツ連隊第2大隊(イギリス本国軍)、ミドルセックス連隊第1大隊(イギリス本国軍)、ラージプト第7連隊第5大隊(英印軍)、パンジャブ第14連隊第2大隊(英印軍)
• カナダ旅団 – 旅団長:J.K.ロウソン准将
• ロイヤル・ライフル連隊第1大隊、ウィニペグ擲弾兵連隊第2大隊
• ロイヤル砲兵団 – 砲兵団長:マックロード准将
• 第8沿岸砲兵連隊、第12沿岸砲兵連隊他、海岸砲29門(高射砲は不足していた)
• 香港義勇軍 – 司令官:H.B.ローズ大佐、現地イギリス人、ポルトガル人、香港人からなる義勇軍(兵力 1,720名)
• 海軍 – 司令官:A.C.コリンソン代将、駆逐艦1隻、砲艦4隻(兵力 780名)
• 空軍 – 作戦機5機(ヴィッカーズ ヴィルドビースト 3機、スーパーマリン ウォーラス 2機)(兵力 100名)

香港攻略戦で捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。

19
3月

H.M.S. “Formidable”

1945年(昭和20年)8月9日早朝から10日夕まで、宮城県女川湾にて戦闘に参加している。この戦闘では、東京と北海道の輸送ルート確保のために設置された大日本帝国海軍横須賀鎮守府隷下女川防備隊の所属する艦艇7隻のうち標的艦「大浜」、択捉型海防艦「天草」、第42号駆潜艇の三隻が大破着底した(海防艦2隻、掃海艇1隻、駆潜艇1隻、特設艦船2隻、小型タンカー1隻の資料あり)。フォーミダブルの被害は所属するF4Uおよびスーパーマリン・シーファイアの各1機のみで、撃墜されて湾内と隣接する山地に墜落した。このうち、F4Uの操縦士であったカナダ海軍のロバート・ハンプトン・グレー大尉は、第二次大戦最後のカナダ人戦死者となった。グレー大尉はこの戦闘での功績によりヴィクトリアクロス勲章が授与された。グレー大尉の記念碑は女川町地域医療センターの敷地内に設置されている(カナダ大使館員が毎年二回訪れる)。大尉が操縦した戦闘機の捜索・引き揚げが試みられましたが、機体は発見できず。

なお、シーファイアの操縦士は脱出して捕虜となった。

MAITLAND LESLIE ALAN L A 22 Twice Mentioned in Despatches 10/08/1945 Sub-Lieutenant (A) Royal Naval Volunteer Reserve H.M.S. Formidable.

ではないか?

一九四五年の初め、英国海軍は極東で、フィリピンから日本本土にかけて活躍した米機動部隊の大兵力と協同作戦を開始し。「シーファイア」3型の八個中隊が、艦隊航空母艦「インブラカブル」「インデファティガブル」および護衛空母「ハンター」「ストーカー」「アタッカー」および「チェーサー」。八月には日本本土の広範な掃討作戦にも参加した。

1945年7月搭載機全54機
第848飛行隊(アベンジャーII×12)
第1841飛行隊(コルセアⅣ×18)
第1842飛行隊(コルセアⅣ×18)
第1844飛行隊(ヘルキャットII×4+第ヘルキャットPRII×2)

宮城県牡鹿郡女川町「女川湾戦没者慰霊塔」

碑文

太平洋戦争苛烈を極めたる昭和二十年八月九日、十日両日に亘り 女川湾内所在の日本海軍防衛隊

及び巡洋艦大浜以下五隻は 連合軍機動部隊の艦載機と激戦して数機を撃墜し捕虜一名を得たるも

艦艇悉く沈没し海軍主計少佐飯田寛吉殿以下百五十七名の戦死をみたるは洵に悼惜にたえず 然る

に右防衛隊の生存者神田義男氏は昨年東南アジア、沖縄等の戦跡を弔い深く感ずる所あり 町内有

志の賛同を得て慰霊塔を建立せんと発願し余に撰文を求む 依って不文を顧みず梗概を録し以て英

魂を慰む

昭和四十一年一月十日  女川町長 木村主税撰文

 

女川防備隊 嵐部隊戦歴

碑文

太平洋戦争日増に酣となり 女川港は海軍の要港として女川防備隊の任務は益々重大を極め 明治丸以下

三十数隻の艦艇は三陸沖に於て連合軍の対潜対空監視の警備につき 司令海軍大佐副島種臣以下将兵千数

百名を擁し 昭和十八年以降敵潜水艦数隻を撃沈し 数隻を撃破し 横須賀鎮守府司令長官より部隊感状

を受くるも 我軍も明治丸、第三鶴丸、桐丸、東郷丸、新東北丸、四十八号駆潜艇外十数隻を失うに至る

又二十年八月九日、十日の戦闘に於て数機の敵機を撃墜せしが 我が軍も三十三号掃海艇、金剛丸以下数

隻を失う 一方牡鹿半島全域に亘り第十四突撃隊嵐部隊司令海軍大佐大田春男以下将兵約四千人は特攻基

地を設け 海天、回龍を主として二百数十隻の特攻兵器を配備(海天回龍は回天、海龍の誤記。女川湾に回天は配備されず。)し本土決戦に備え設営中なるも終戦となる

謹みて神州不滅を信じ同方面作戦に於て殉國の英霊となられし将兵に対し 深甚なる弔意を表し御冥福を

祈る

昭和四十一年八月十日  神田義男建之

19
3月

S.S. Nankin

S.S. Nankin(ナンキン)


Nankin (1912-1942)-Leuthen (1942 following it’s capture)

Launch Date: 18 May 1912.- Destroyed: Nov 30, 1942.
built: Caird & Company, Yard Dock 320, for the Greenock United Kingdom.
Owner: Peninsular & Oriental Steam Navigation Company

船主:ペニンシュラ アンド オリエンタル スチーム ナビゲーション カンパニー

Passengers: 94 (in peacetime).
Length: 450′ (137.2 m)
Breadth: 52′ (15.8 m)
Draft: 28′ (8.5 m)
Engine: 2 x quadruple expansion engires via twin screw.
登録総トン数: 6846

客船「ナンキン」
ドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール(Thor)」(2回の出撃を行ない、計22隻、155,000トンを、拿捕または撃沈)にインド洋にて拿捕され、拿捕後「ロイテン」と改名。1942年11月30日に起こったドイツ艦船「ウッカーマルク (Uckermark) 」の爆発(横浜港ドイツ軍艦爆発事件)に巻き込まれ、沈没した。この時、「ウッカーマルク」「トール」「ロイテン」「第三雲海丸(中村汽船所有の海軍徴用船)」の4隻が沈没。

surnameforenamedate_of_deathrankregimentgravereference
COWLELEONARD HARVEY25/07/1945Third Radio OfficerAustralian Merchant NavyAust. Sec. A. B. 03.
HALLGEOFFREY SPINNER19/01/1943Third OfficerAustralian Merchant NavyAust. Sec. A. B. 14.
MAHONYFRANCIS GEORGE25/07/1945Third MateAustralian Merchant NavyAust. Sec. A. D. 05.
MONTGOMERYLEOPOLD25/07/1945Fourth Engineer OfficerAustralian Merchant NavyAust. Sec. A. D. 11.
ROZEAHARRY TRIVETT25/07/1945Second OfficerAustralian Merchant NavyAust. Sec. B. A. 04.
BROWNTHOMAS13/12/1943Chief Engineer OfficerAustralian Merchant NavyAust. Sec. B. C. 13.
GLEESONLORRAINE ELIZABETH07/04/1945StewardessAustralian Merchant NavyAust. Sec. E. D. 06.
MOHAMMED JAN23/01/1943QuartermasterMerchant NavyBrit. Sec. X. A. 10.
ABDUL AZIZ23/12/1943SailorIndian Merchant NavyIndian Sec, A. D. 09.
SHEIK PUNJAB04/02/1944CassabIndian Merchant NavyIndian Sec. A. D. 01.
SONO KHAN07/02/1943ScullionIndian Merchant NavyIndian Sec. A. D. 02.
NAWAB ALI03/02/1944FiremanIndian Merchant NavyIndian Sec. A. D. 03.
ABDUR RAHMAN05/04/1944ScullionIndian Merchant NavyIndian Sec. A. D. 04.
ATAB ULLAH28/02/1944CassabIndian Merchant NavyIndian Sec. A. D. 05.
ELAHI BUX18/04/1944ScullionIndian Merchant NavyIndian Sec. A. D. 06.
SULEMAN17/09/1943TopassIndian Merchant NavyIndian Sec. A. D. 10.
WAHID19/02/1944ScullionIndian Merchant NavyIndian Sec. A. D. 11.
ABDUL SATTAR12/06/1943ScullionIndian Merchant NavyIndian Sec. A. E. 04.
MUHAMMAD HUSSAIN ALI28/02/1944SeacunnyIndian Merchant NavyIndian Sec. A. E. 06.
AMBAR ALI05/12/1943TrimmerIndian Merchant NavyIndian Sec. A. E. 08.
MANHAR ALI18/07/1945TindalIndian Merchant NavyIndian Sec. A. E. 09.
MUNIR AHMED04/04/1944SailorIndian Merchant NavyIndian Sec. A. E. 10.
MOHAMED HASSAN14/03/1945QuartermasterIndian Merchant NavyIndian Sec. A. E. 11.
ABDUL GHAMIR02/12/1944WinchmanIndian Merchant NavyIndian Sec. A. E. 12.
ABDUL LATIF18/05/1943FiremanIndian Merchant NavyIndian Sec. A. F. 02.
BUDHU MIAN14/12/1942ScullionIndian Merchant NavyIndian Sec. A. F. 03.
MOOSA19/11/1942ScullionIndian Merchant NavyIndian Sec. A. F. 04.
MOTASIR ALI06/04/1943OilerIndian Merchant NavyIndian Sec. A. F. 05.
HASHIM MIAN19/02/1943IcemanIndian Merchant NavyIndian Sec. A. F. 06.
YAR MUHAMMAD19/05/1945BhandaryIndian Merchant NavyIndian Sec. A. F. 07.
MUHAMMAD HUSSAIN05/03/1944TopassIndian Merchant NavyIndian Sec. A. F. 12.