新田次郎という男

新田次郎氏   年譜

明治45年 1912年6月6日、長野県上諏訪町(現在の諏訪市)大字上諏訪角間新田で、父・彦、母・りゑの次男として生れた。本名藤原寛人。新田の次男坊だったので、後にペンネームを新田次郎とした。霧ケ峰を遊び場として育つ。
大正8年 1919年
上諏訪の高島小学校へ入学。
大正14年 1925年 13歳
県立諏訪中学校(現在の諏訪清陵高校)へ入学。歴史部を作り、石器や土器を発掘すること、歴史を学ぶことに興味を持つ。
昭和5年 1930年 18歳
無線電信講習所本科(現在の電気通信大学)へ入学、東京での生活が始まる。昭和7年
1932年 21歳
無線電信講習所を卒業。中央気象台(現在の気象庁)に就職。この年より昭和12年まで、富士山観測所に勤務する。交替勤務で、1度山頂に登ると30日から40日は山を降りられない生活だった。
昭和14年 1939年   27歳
両角ていと結婚。昭和18年 1943年  31歳
満州国(現在の中国東北部)中央気象台口に、高層気象課長として転職。昭和21年 1945年  32歳
新京(現在の長春)で終戦を迎え、軍人ではなかったが、家族と別れソ連の捕虜となり、その後中共軍に職を得て1年余の抑留生活を送る。妻ていは2人の子供を連れ、38度線を歩いて越えて翌年帰国。

昭和21年 1946年   34歳
1月、満州から帰国。気象台に復職する。

昭和23年 1948年 36歳
この頃、アルバイトとして、理科の教科書、持に気象関係の執筆を引き受けた。又、ジュニア小説として「超成層圏の秘密」「狐火」を書くが、どちらも活字にならず、原稿も紛失してしまった。

印和26年 1951年 39歳
妻ていの書いた満州からの引きあげの記録「流れる星は生きている」がべストセラーになったのに刺激され、また編集者の勧めもあって、「強力伝」を「サンデー毎日第41回大衆文芸」に応募、現代の部1等に入選する。「サンデー毎日中秋特別号」に掲載。人選後、丹羽文雄氏主催の「文学者」の同人となる。

昭和27年 1952年 40歳
「郷愁の富士山頂」を「山と渓谷」2月号より翌年5月号まで連載。また少年技術雑誌「電波と受験」に「ひとり旅」を連載。このころ小説雑誌に多くの作品を投稿するが、活字にならなかった。都下吉祥寺に転居する。

昭和30年 1955年 43歳
少年時代に祖父から聞いた日本狼の話をまとめた「山犬物語」が「サンデー毎日第47回大衆文芸」に入選、「陽春特別号」に掲載。2月、「凍傷」を「文学者」に発表。9月、処女短編集「強力伝」が朋文堂より刊行される。「孤島」が「サンデー毎日3周年記念大衆文芸懸賞小説」に1等入選、「中秋特別号」に掲載される。

昭和31年 1956年 44歳
2月、「強力伝」によって第34回直木賞を受賞。

昭和32年 1957年 45歳
この頃、科学小説、時代小説、ジュニア小説、SF、山岳小説、メロドラマ等、多方面の短編小説を数多く手がける。

昭和33年 1958年 46歳

昭和34年 1959年 47歳
気象庁測器課勤務の傍ら、山岳小説、推理小説を中心に執筆活動を展開する。

昭和35年 1960年 48歳

昭和36年 1961年 49歳
7月半ばより3カ月、ヨーロッパの気象測器調査と取材を兼ねて、スイス・フランス・ドイツ・イタリー、イギリスを回る。

コペンハーゲン、ハンブルク、ベルリン。フランクフルト、スツゥツガルトを飛行機で移動。

7月30日 :13時27分の汽車でチューリッヒ出発

昭和37年 1962年 50歳
昭和38年 1963年 51歳
測器課長になり、富士山気象レーダー建設という大仕事の責任者となる。

昭和39年 1964年 52歳
夏、富士山頂気象レーダー建設工事を成功させ、同時にひそかに辞職の決心をする。
昭和40年 1965年 53歳

昭和41年 1966年 54歳
気象庁を退職、筆1本の生活に入る。夏、2度目のヨーロッパ旅行をする。
昭和42年 1967年 55歳
昭和43年 1968年 56歳
昭和44年 1969年 57歳
昭和45年 1970年 58歳
昭和46年 1971年 59歳
昭和47年 1972年 60歳
昭和48年 1973年 61歳
夏、アラスカへ取材旅行に出かける。
昭和49年  1974年 62歳
3月「武田信玄、ならびに一連の山岳小説に対して」第8回吉川英治文学賞を受賞する。昭和50年 1975年 63歳。
夏、夫人と3度目のヨーロッパ旅行に出かける。昭和51年 1976年 64歳。
3月、講演旅行でヨーロッパの主要都市を回る。昭和52年 1977年 65歳昭和53年 1978年 66歳
7月、夫人と東欧旅行、11月、カナダ・アメリカへ取材旅行に出かける。
昭和54年 1979年 67歳
6月、ポルトガル、マカオに取材旅行に出かける。

昭和55年 1980年  68歳
2月15日午前9時12分、東京都吉祥寺の自宅で心筋梗塞のため急逝。

2月25日、青山斎場で葬儀。上諏訪正願寺に埋葬。