22
9月

多富気王子

多富気王子(たふけおうじ、たぶけおうじ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社旧蹟。九十九王子の最後の一社である。大門坂登り口にほど近い、夫婦杉からすぐ上部のところにある。

中右記』、「熊野道之間愚記」(『明月記』所収)、『修明門院参詣記』といった主要な中世参詣記には見られず、史料上で確認できるのは近世の地誌・旅行記の類においてである[1]。『紀南郷導記』(元禄年間)には近隣の市野々村の小字である二ノ瀬にある若一王子社の小祠として記述され、寛政6年(1794年)の『熊野巡覧記』には児宮とある。

起源や由緒など、不明なところが多い。「手向け」から転じたとする説や[2]、この王子社を設けた那智山の社僧の名にちなむとする説(『那智勝浦町史』[1])、那智山参詣の祓所とする説などがある。『紀伊続風土記』では若宮の名の他、道祖神を祭神とする旨の記述が見られる。江戸時代には社殿があったと伝えられているが、1877年明治10年)に熊野那智大社摂社のひとつ児宮として境内に移され[2]、跡地には石碑と庚申塚のみが残されている[3]。和歌山県指定史跡(昭和33年〈1958年〉4月1日指定)[4]

22
9月

市野々王子

市野々王子(いちののおうじ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野九十九王子のひとつ。境内は市野々王子跡として、国の史跡「熊野参詣道」の一部(2000年平成12年〉11月2日指定)[1]

歴史

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市野々王子の創建は明らかではないが、古くから熊野那智大社末社であって[2]、修造費用が同社によって負担されていた。中世熊野詣の参詣記にその名が見られることから、遅くとも中世までには確立されていたものと考えられており、藤原宗忠の参詣記(『中右記』)には「一野」、修明門院の参詣記には「一乃野」の名で登場する[2]

那智参詣曼荼羅において二瀬橋のすぐ手前に描かれている小社が市野々王子であろうと推定されている。『紀伊続風土記』は、往来する多くの参詣者を相手にが立ったことが社名の由来であるとしているが、室町時代から戦国時代の史料はもっぱら「一野」であって、市野々王子または若女一王子の社名が定着したのは近世のことである[2]

社地については諸説あり、もとから現在地にあったとする説と、100 mほど北側の文明の岡という場所が旧社地であり、それが近世に移設されたものだとする説がある[3]。文明の岡には、明治はじめまで金毘羅社があったが、1873年明治6年)に市野々王子が王子神社の社名で那智大社から独立した際に合祀されている

22
9月

浜の宮王子

熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)、または大神社(おおみわやしろ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三神を主祭神とすることが名称の由来とされる。主祭神像三躯は重要文化財に指定されている(美術工芸品、1982年昭和57年〉6月5日指定)[1]

九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡[注釈 1]に建つため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも呼ばれる。浜の宮王子の守護寺である補陀洛山寺が隣接しており、神仏習合の名残をみることができる。境内は浜の宮王子社跡として、国の史跡「熊野参詣道」の一部(2000年平成12年〉11月2日指定)[2]

22
9月

佐野王子

佐野王子(さのおうじ)は和歌山県新宮市にある神社旧址。熊野九十九王子のひとつ。県指定史跡(1959年昭和34年〉1月8日指定)[1]

佐野王子の創建年代は明らかではなく、承元4年(1210年)の修明門院参詣記に初出する[2]江戸期の地誌『紀伊続風土記』は、熊野那智大社の境外末社となった後、廃絶したと伝えている。それによれば、佐野王子の跡地は若一王子森と呼ばれており、周囲230(約420メートル)の立派な森であったという[2]

しかし、他の記録には、本来の佐野王子とは近くの王子川河畔に設けられた祓所が転じたものであるとされ、この祓所を継承したと見られる若一王子神社が明治まで存続していた。この神社は、1911年(明治44年)10月26日付で、新宮市佐野山田の天御中主神社(あめのみなかぬし)神社に合祀廃絶された[3][4]。その後も1926年(大正15年)の和歌山県の調査では、王子橋から約2(約230m)の松林の中に3(約90cm)四方の小祠があったとしているが、『新宮市誌』[5]には倒壊して失われたと述べられている[3]

現在地は王子橋の北約80メートルの位置にあり、「王子跡」と刻銘された石碑および説明版、さらに碑の北側約10メートルに北条政子の宝筐印塔、地蔵群、南側約40メートルに神武天皇聖績狭野顕彰碑がある[3][4]

所在地

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  • 和歌山県新宮市佐野641
22
9月

浜王子

浜王子(はまおうじ)は和歌山県新宮市にある神社。熊野九十九王子のひとつ。県指定史跡(1959年昭和34年〉1月8日指定)[1]

浜王子の創建年代は明らかではないが、伝承によれば、神武東征の際に熊野灘で嵐に遭った際、自らの身を投じて嵐を鎮めた2柱の神、稲飯命と三毛入野命を祀ったのが起源であるという[2]。この伝承に見られるように、古くから海の神を祀る海浜の宮であったと考えられるが、熊野信仰の発展とともに熊野権現の御子神を祀る王子社として知られるようになったと見られる[3]

承元4年(1210年)の修明門院参詣記の5月4日条には、新宮・那智の間に阿須賀、高蔵、佐野、一及野の4つの王子社の存在が言及されているが、浜王子の名は見当たらず、史料上の初見は、文明5年(1474年)の『九十九王子記』に「浜王子」と記されているものである[4]。その後、江戸期に入ると『紀伊続風土記』に方36余(約120cm)の小祠と5尺(約165cm)の鳥居からなる「浜王子社」についての記述が見られる。14世紀前半にはかなりの社格があったと見え、元亨2年(1322年)には武蔵国豊島郡東京都北区)の領主であった豊島右近太夫景村なる人物が自領に勧請した(王子神社)と伝えられる[5]

1879年明治12年)に阿須賀神社に合祀されたが、1926年大正15年)に村社として独立した[6]。戦前までは松林に囲まれたゆったりとした景観を誇り、78(約258平方メートル)の境内地には現在の大浜(王子ヶ浜)の海浜地をも含んでいたと言う。その当時の景観は旧『新宮市誌』所収の写真で確認できるが、今日では周囲が住宅地化したことで失われた[2]。これは、1946年昭和21年)の南海大地震により、応急に住宅建設の要に迫られたことから、社地を含む周囲の国有地が払い下げられたことによるものである[7]

22
9月

祓戸王子

伏拝王子を過ぎると道は再び地道が続き、本宮町九鬼で小辺路と合流する。小辺路との合流点にはかつて関所があり、茶屋が設けられていたことから三軒茶屋跡とも呼ばれる。尾根伝いの道を進んで最後の坂を下りきり、団地の中を抜けて、やがて小さなドーム状の樹叢が見えてくる。この樹叢に守られるように立つのが祓戸王子(はらいどおうじ、史料によっては「祓殿」「祓所」などの別表記あり)である。ここから本宮大社の旧社地まではわずかな距離し かなく、本宮参拝の直前に身を清める潔斎所としての性格を帯びていたと見られる[13]

江戸時代の神社誌『南紀神社録』には王子社と天神社が現在地にあったと伝えており、さらに『官幣大社熊野坐神社年表』には、1907年(明治40年)に摂社産土田神社を末社祓戸天神社に移したとあり、社の性格は定まらない。旧くは樹叢そのものが潔斎所としての性格を帯びていたものが、王子社に転じたものと考えられる[14]

木立の左側には、明治初期まで医王寺という寺院があった。『愚記』10月16日条に、発心門を発った後鳥羽院一行の到着を待つ間に休息をとった地蔵堂の跡地である。現在では、道の傍らにある石仏がわずかにその痕跡を伝えている[15]

  • 所在地 田辺市本宮町祓戸1077
22
9月

伏拝王子

分校跡地からすぐに参詣道跡は地道を辿る。植林地の中に続く道を抜けて伏拝の集落に出て、坂道を登り切ったあたり、伏拝字茶屋に伏拝王子(ふしおがみおうじ)がある。長く厳しい参詣道を歩いてきた参詣者たちが、熊野川と音無川の出会うところにある熊野本宮大社の旧社地(大斎原)の森を、はじめて望むことができたのがこの地である。

中世参詣記にはその名は見えず、『縁起』や『王子記』にも名が見られない。成立時期は相当遅いものと見られ、享保15年(1730年)の『九十九王子記』に、和泉式部供養塔とともに「伏拝村」はずれの道の左側にある、と述べられているのが初出である[10]。『道中記』には、

和泉式部供養塔 伏拝村はずれ道の左 伏拝王子 社なし同村はずれ道の左

とある[11]。もともとは両者は離れた場所にあったが、1973年昭和48年)に両方とも道の右側にある古道と農道に挟まれた丘の東側中腹に移されている[11]

和泉式部供養塔は、徳川頼宣が寄進したものである。笠塔婆の上に宝篋印塔の塔身と蓋を積み上げたものであり、延応元年(1239年)の銘がある[10]。この供養塔は、古くは現在地から古道沿いに西に戻ったところにある、60メートルほどの短い坂の左側にあったと伝えられていることから、町石のひとつであったと考えられている。この坂は地元で一里坂と呼ばれ、伏拝王子の近辺から本宮大社までの距離はほぼ1(4km)に相当することに由来する地名と考えられる。また、笠塔婆という形状も、町石に用いられる典型的なものである[11]

この王子にまつわる説話に、和泉式部が月のさわりに見舞われ、

晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき

と嘆いたところ、その夜、式部の夢に熊野権現が現われて、

もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき

と返歌し、参拝を許されたとするものがある[12]。この説話が広められたのは室町時代から南北朝時代にかけてのことであり、その担い手は一遍を開祖とする時衆であった。一遍は熊野の地で時宗の教義を得たが、その一つの核に、阿弥陀如来による救済には阿弥陀への信・不信を問わないとする無差別の思想がある。これを宣伝するために、和泉式部を引き合いに出したものと考えられている[10][12]

  • 所在地 田辺市本宮町伏拝字茶屋続157
22
9月

水呑王子

発心門王子から林道を下って、小集落の中を抜けてゆくと本宮町萩に出る。集落のなかの道を進み、右手に分かれる林道に上がって2km弱のところに水呑王子(みずのみおうじ)があり、緑泥片岩碑が立っている。

和歌山県聖蹟』では『愚記』を根拠に水飲王子の名を採り、現在もその名で呼ばれているが、中世の参詣記(『中右記』『愚記』)には内水飲王子と明記されており、『縁起』や『王子記』も同様の王子名を記録している[6]ことから、16世紀末頃までは内飲水と呼ばれていたことがわかる。古くは、高原(田辺市中辺路町)にも「水飲」なる地名があったと『中右記』にあり、『縁起』や『中右記』の記述からすると本宮から3日行程と見られることから大門王子の近辺と推定されている[7]。これら2つの地名を区別するため、また、発心門のうちにあって本宮に近いことからこのように呼ばれたようである[8]

『続風土記』には「水呑王子」の名が見られることから、現在の名が定着したのは遅くとも江戸時代以降と見られる。現在地は、三里小学校三越分校の校地跡であり、校地の工事のために少なくとも2度、移動させられている[6][9]

  • 所在地 田辺市本宮町三越字大横手1416-1
22
9月

猪鼻王子

猪鼻王子(いのはなおうじ)は、三越峠一帯を源流とする音無川(おとなしがわ)の河畔にある。本宮町萩から三越峠を結ぶ林道が拓かれ、参詣道の跡はとどめられておらず、王子址には林道から河原に下りて行かねばならない。現在ではわずかに紀州藩の碑が残るのみである。

『愚記』に「猪鼻」とあり、『中右記』『頼資卿記』には谷川を数度わたって猪鼻王子に着いたとある[5]が、その後の熊野詣の衰微に伴って廃絶した。『郷導記』にも、谷川にかかる板橋をわたりながら進んだとあり、ほとんど道筋に変化が無かったことが分かる。次の発心門王子までは、猪鼻王子からごく近いところから山道を登って行った様が伝えられているが、現在ではその跡をたどることはできない。

  • 所在地 田辺市本宮町三越字猪鼻1811
22
9月

湯川王子

湯川王子(ゆかわおうじ)は、岩神峠のふもと、湯川川の源流域の谷間にある。『為房参詣記』は、三階(みこし、現在の三越峠)の手前に内湯川(うちゆかわ)なる地名を記している[29]。王子の名の初見は、『中右記』10月25日条の「内湯参王子」、『愚記』10月15日条にある「王子湯河」で、このころに湯川王子の名が定着したと見られる[30]。参詣の途上、宿泊や休憩をすることが多く、皇族・貴紳の宿所が設けられた[29]

湯川一帯は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に威勢を誇った湯川氏の発祥の地とする伝承があり、応永34年(1427年)に足利義満の側室・北野殿が参詣した際には、奥湯川氏を名乗る豪族の一党が兵を従えて接遇を行っている。

江戸時代には、本宮の湯川(下湯川村)と区別するために道湯川村(どうゆかわむら)と呼ばれ、王子は若一王子社として祀られた。明治期には王子神社と呼ばれ、住人たちの氏神であったが、明治末年に社殿を残して金毘羅神社(近野神社)に合祀された[30]。道湯川村はもともと山中の辺地の小集落で、明治に入っても和歌山県内唯一の義務教育免除地とされたほどであった[31]

加えて、国道311号が三越峠の険路を避けて敷かれて交通路から取り残されたこともあって住人の退去が進み、1956年(昭和31年)には無住の地となって[31]、社地も廃墟と化した[30][29]。現社殿は、1983年(昭和58年)に再建されたものであり、以来、旧住人たちが祭祀を執り行っている[32]

  • 所在地 田辺市中辺路町道湯川字王地谷20
22
9月

岩神王子

岩神王子(いわがみおうじ)は、中辺路の難所として知られた岩神峠にたたずんでいる。

熊瀬川をわたって草鞋峠を越え、そこから坂道を下って、栃ノ河(とちのごう、または「栃の川」とも)の河原にたどりつく。この栃ノ河は付近に栃の木が多かったことから名づけられたといい、『中右記』にも「都千の谷(とちのたに)」なる記述がある。このあたりは険しい道として知られ、しかも密生した樹木からヒルが降ってくるとして蛭降谷百八丁などと呼ばれた[25]

江戸時代頃から、この谷を挟んで両側の峠への坂をそれぞれ女坂(草鞋峠側)、男坂(岩神峠側)、両方を合わせて女夫(めおと)坂と呼ぶようになり、これにちなんで河原にあった茶屋は仲人茶屋と称されたという。江戸時代後期にここを旅した文人の関心を惹いたようである[25]。栃ノ河の河原から、ところどころに石畳の残された男坂を登ると、小さな切通し状の峠の北側に王子址がある。

『中右記』10月25日条には、「石上の多介(いしがみのたわ)」の王子に参拝したとの記述がある。この時、近くに地方から熊野詣に参る途中の盲者がうずくまっており、宗忠は食料を与えたと述べている[26]。王子の名は『愚記』には「イハ神」、『建保御幸記』の参詣記には「石神」とあり、岩神の表記が定着するのは江戸時代以降のことである。江戸時代中期、享保・元文年間の頃までは茅葺の小祠が祀られていたが、寛政の頃には破損して扉も無く、囲い板も失われていた。『続風土記』が編纂された江戸時代後期には、社も印も無い旧址と化しているにもかかわらず、毎年祭日になると神酒が供えられていたと述べられている[27]

明治期になってからの合祀廃絶も早く、1877年(明治10年)に湯川王子(後述)に合祀されたことに加え、峠道が廃道になったことから長らく所在地が不明になっていた。しかし、1965年昭和40年)に道湯川林道が開かれて近辺の山林へのアクセスが容易になったことで、峠越えの旧道がまず確認され、次いで1960年代末頃から西律の調査[28]や中辺路町の関係者の努力により、王子の位置が明らかにされた[26]

  • 所在地 田辺市中辺路町道湯川岩神222
22
9月

熊瀬川王子

熊瀬川王子(くませがわおうじ)は、小広峠を下って熊瀬川をわたり、草鞋峠へ登る道の傍らにある。地名としての熊瀬川は、『承元参詣記』5月1日条で、熊瀬川で昼食を取ったという記述に見られ、『寛喜参詣記』11月5日条には、近露を発ち、やはり熊瀬川で昼食をとったと述べられている[23]。しかし、「熊背川王子」の名が見出される史料はわずかに『熊野縁起』1篇に過ぎず、王子間の平均的な距離は2キロメートルから3キロメートルほどあるが、小広王子からの距離はせいぜい1キロメートルほどしかなく、設立年代も含めて疑問が残る[24]

熊瀬川とはもともと、小広峠一帯を源流域とする谷川だが、同時に草鞋峠の登り口一帯を指す地名であって、その旨が元文4年(1739年)の『熊野めぐり』に明言されている。また、『続風土記』では「小名熊瀬河は小広峠にあり」としている。これらから、小広王子と熊瀬川王子は同一の王子の可能性もある[24]

22
9月

小広王子

小広王子(こびろおうじ)は、中ノ河王子から続く小さな峠にある。『中右記』10月25日条に、「仲野川王子」に奉幣の後、「小平緒(こびらお)」「大平緒(おおびらお)」を経て岩神峠に向かったとし、『愚記』も「中ノ河」の次は「イハ神」と述べている。いずれも王子社の存在は述べられておらず、成立はその後と見られる[20]

『道中記』(享保7年〈1722年〉)に「小広尾」なる王子の名が登場するのが史料上の初出だが、既に社は失われていたという。紀州藩が緑泥片岩碑を建てたが、1909年(明治42年)に近露の金比羅神社(近野神社)に合祀廃絶された。

1899年(明治32年)および1930年(昭和5年)と2度にわたる県道(現・国道311号)の道路改修で小広峠の道筋が大きく掘り下げられたことにより、跡地は消滅し[20][21]、碑も現在地に移された[22]。碑は上部が欠損しており、下部の「王子」の文字がわずかに読み取れるのみの状態である[21]

  • 所在地 田辺市中辺路町野中字小広1
22
9月

中ノ河王子

中ノ河王子(なかのかわおうじ)は、継桜王子のある野中集落を出て、高尾隧道口を過ぎてまもなく、国道の側方の山中にある。旧址には、紀州藩の緑泥片岩碑があるばかりである。『中右記』10月24日条には「仲野川仮屋」の名で既に登場しており、『愚記』10月14日条に「中の河」なる王子の名が挙げられている[18]

『王子記』には「中河」、『続風土記』には「中川王子碑」とあり、近世には「中川」「中河」と表記された[18]。近世には、『道中記』に社がないと述べられ、『続風土記』にも同様の記述がある[19]。享保8年(1723年)には紀州藩が緑泥片岩の碑を建てたが、碑だけしかないことから、1909年(明治42年)に金毘羅神社(近野神社)に合祀された[19]

  • 所在地 田辺市中辺路町野中字高尾2177
22
9月

比曽原王子

比曽原王子(ひそはらおうじ)は、近露道中から約2キロメートルほどの国道沿いの土手の草叢のなかにあり、緑泥片岩の碑のみが遺されている。社祠があったあたりは杉植林地になってから時間がたっており、痕跡は見出せない。道中からは茶屋坂を登って国道に一度合流し、楠山坂を登ってゆく。

比曽原王子の名は『愚記』や『熊野縁起』に見られるが、早い時期に退転したようである[16]元文4年(1739年)の参詣記『熊野めぐり』には、近隣の住人に尋ねてもその由来を知る者がいなかった、と述べられている。

この近くには手枕松というマツの名木があったと伝えられ[17]、江戸時代の文人の紀行文の類では、こちらの方がむしろ関心を集めていたようである。

  • 所在地 田辺市中辺路町野中字比曽原1143
22
9月

大阪本王子

大阪本王子(おおさかもとおうじ)は、大阪峠(逢坂峠)の麓にあることから名づけられたと見られる。逢坂峠は近露側から登るには相当の急坂であることから、古くから大坂と呼ばれており、『為房参詣記』10月7日条に「大坂之草庵」、『中右記』10月14日条に「大坂本王子」の地名が登場している[13]

江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記され、『続風土記』には社殿はなく碑のみとし、御幸記より大坂本王子の跡地と推定しているが、『熊野詣紀行』には小社ありと述べられている[14]1909年(明治42年)に近露の近野神社に合祀され、廃絶[13]。『続風土記』は大坂王子と記された碑があったと伝え、『熊野詣紀行』は小祠があったとしている[14]が、いずれも明治末年以降、行方が知れない[15]。現比定地に遺されている笠塔婆は、他に見られるものと同じく鎌倉時代後期に造立された町石卒塔婆である。

  • 所在地 田辺市中辺路町近露逢坂2511
22
9月

十丈王子

十丈王子(じゅうじょうおうじ、重点王子〈じゅうてんおうじ〉[10]とも)は大門王子から2キロメートルあまり、上田和への上りに差し掛かる十丈峠(じゅうじょうとうげ)の付近にある。「重照王子」[11]とまれに記されるが誤記である[10]。中世参詣記には重點(じゅうてん)の地名および重點王子の社名で登場し、『中右記』10月24日条に雨中に重點を通過したとあり、王子の名は『愚記』10月14日条に初見する[10]。また、『承元参詣記』4月30日の条では、重點原で昼食をとってから、王子に参詣したとしている。

重點の名が十丈に転じた理由は明らかではないが、時期としては江戸時代以降のことで、『紀伊続風土記』には「十丈王子社境内周三十間」とある[10]。江戸期には茶店などを営む小集落が近辺にあり、王子神社として祀られていた。明治時代以後は村社とされたが、1908年(明治41年)春日神社(田辺市大塔村)に合祀され社殿は撤去された、1970年代始め頃までには集落からも住人が退去し、一帯が竹藪に帰していた時期があったという[12]

22
9月

大門王子

大門王子(だいもんおうじ)は、高原集落から十丈峠へ向かう山道の右手にある。『愚記』や『中右記』に言及はなく、『道中記』(享保7年〈1722年〉)に社殿なしとしてこの王子の名が登場するのが史料上の初出であることから、中世熊野詣以後の時代に建てられた王子と見られている[7]。大門の名の由来は、この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによるという。

以前は見事な松の大木があったが、マツクイムシの食害で枯死し、伐られた。その後、朱塗りの社殿が建てられ[8]、町石卒塔婆と緑泥片岩碑はその背後に隠れてしまっている。定家・宗忠の参詣記、さらに古くは増基の『いほぬし』も、この付近に水呑仮宿所ないし山中宿なる宿所にふれているが、大門王子付近にあったものと見られている[9]

  • 所在地 田辺市中辺路町高原707-2
22
9月

不寝王子

不寝王子(ねずおうじ)は、滝尻王子の後背にそびえる剣山(371メートル)への急坂の途中、最初に出会う王子である。不寝王子の名は、中世の記録には登場しない。江戸後期の地誌『郷導記』(元禄年間)での記述が史料上の初出である。そこでは、ネジないしネズ王子と呼ばれる小祠址についての記述があり、「不寝」の字を充てるとしているが、その存在は不明確であるともしている。『続風土記』ははっきり廃址と断じており、滝尻王子に合祀されていると述べている[6]

  • 所在地 田辺市中辺路町栗栖川字平原
22
9月

鮎川王子

鮎川王子(あゆかわおうじ、あいかわおうじ[29])は、一ノ瀬王子から富田川を北上した対岸にある。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、冠千早袴着神像を祀り、本山派山伏貴明院が社役を勤めていたという[29]

『明月記』建仁元年(1201年)10月13日条に「次参アイカ王子」とあり、『熊野縁起』や『九十九王子記』にも「鮎河」との記述が見られる[30]

1874年(明治7年)に対岸の住吉神社に合祀された際、18世紀前期に建立された本殿も移設され[31]て今日に伝わるが、その後の道路改修により旧社地周辺の往時の面影は完全に失われた[29]1889年(明治22年)の水害までは、社地の前の河原に「王子田」と呼ばれる水田があり、後背の山は「王子山」「権現山」などと呼ばれたという[32]

旧社地には鮎川王子碑と大塔宮剣神社碑が建てられている[32]。田辺市鮎川地区は、大塔宮護良親王元弘の乱で敗北ののち、大塔山中に落ちのびたとする落人伝説の地であり[33]、大塔宮剣神社の創建の由緒は大塔宮にまつわるものであると伝えられている[32]

鮎川王子跡は和歌山県指定史跡(1966年〈昭和41年〉12月9日指定)[3]

  • 所在地 田辺市鮎川659
22
9月

一ノ瀬王子

一ノ瀬王子(いちのせおうじ)は、稲葉根王子跡の岩田神社から富田川(岩田川)沿いに進み、一ノ瀬橋を渡った富田川左岸にある。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、蛇形の石を神体とし、本山派山伏威徳院が社役を勤めていたという[23]

史料上には、『明月記』建仁元年(1201年)10月13日条に「一ノ瀬王子」とある[24]ほか、寛喜元年(1229年)の藤原頼資の独参記に「於石田一瀬昼養」、 吉田経俊の『経俊卿記』建長6年(1254年)2月7日条や康元2年(1257年)閏3月28日条に記述が見られる[25]

一ノ瀬は富田川の渡河点であることから、水垢離の場として重んじられ[26]、『源平盛衰記』巻40の平維盛の熊野詣記にも岩田川にて垢離をとったと記され、『熊野縁起』にも祓の場所と述べられている[25]。その後も、足利義満の側室北野殿の熊野参詣記『熊野詣日記』応永34年(1427年)9月26日条に、中世熊野詣の故事にちなんで垢離をとったとあるほか、文明5年(1474年)の『九十九王子記』にも、その名が見られる[25]

宝暦14年(1764年)の古記録(興禅寺蔵)によれば、近世初頭に既に廃絶しており、そもながらく不明なままであったが、紀州藩の調査で旧社地が確定され、再興された際の棟札が伝えられている[23]。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、建前3尺四方、表口2間・裏口1間の拝殿、境内は奥行き4間・幅3間であったという[23]。1907年(明治40年)、対岸の春日神社に合祀され、以来、小祠と高さ2mほどの石碑が旧社地にのこされている[27]

旧社地は和歌山県指定史跡(1955年〈昭和33年〉4月1日指定)[28]

22
9月

八上王子

八上王子(やかみおうじ、やがみおうじ)は、三栖王子から県道上富田南部線沿いに三栖谷峠を越えて坂道を下った、高畑山の山麓にある。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、本地仏は十一面観音[16]

史料上の初見は西行の歌集『山家集』所収の歌の詞書に「八上の王子」とあるもので、『西行物語絵巻』にも当時の社地の様子が描かれている[16]。その後、『明月記』所収の後鳥羽院参詣記建仁元年(1201年)10月13日条に「ヤカミ王子」とあるほか、『熊野縁起』(仁和寺蔵、正中3年〈1326年〉)の道中次第に「八上大岡」の記述が見られる[17]。『明月記』に先立つ『中右記』天仁2年(1109年)10月22日条に、田辺を発ち、 50ほど進んで「荻生山口」を通過、さらに山を越えて「新王子社」にて奉幣したとあり、距離などから推定して創建されて間もない頃の八上王子のことだと考えられている[16]

近世に熊野参詣の道筋が潮見峠越えに変化してからは、熊野参詣者の参拝は途絶えたが、宝暦10年(1760年)の聖護院門跡の熊野参詣の際には、下三栖の道端で八上王子の方向に向かって誦経したという(「宝暦十年指出帳」)[17]

近世を通じて近隣の岡の産土神として崇敬され、『田辺領神社書上帳』によれば、建前55四方、表口3間裏口2間の拝殿のほか、末社として若宮・大般若経堂があり、境内は奥行き18間・幅7間であったという[16]。1907年(明治40年)にいったん合祀された後、1915年(大正4年)に八上神社として再び独立した[18]

八上神社境内は名勝南方曼荼羅の風景地(2015年〈平成27年10月7日指定)の一部[3]。境内には前述の歌集にちなむ西行歌碑が1916年(大正5年)に建立されたが、風化による損傷が著しいため、1987年(昭和62年)に建てかえられている[19]

例祭は古くは9月9日であったが、現在は毎年11月29日で、十数種におよぶ多彩な獅子舞が演じられる[20][21]。例祭は「岡の獅子舞」として和歌山県指定無形民俗文化財(1972年〈昭和47年〉4月13日指定)[22]である。

22
9月

三栖王子

万呂王子を発ち、左会津川を東に渡った小高い丘の上にあるのが、三栖王子(みすおうじ、またはミスズ王子〈みすずおうじ〉[12]三栖山王子〈みすやまおうじ〉[13]とも)である。

『中右記』には見られず、「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条に「ミス山王子」とあるのが史料上の初出で、近世には、元禄7年(1694年)付の古記録『田辺領寺社改帳』によれば影見王子(影見王寺)の名で祀られたとある[13]。しかし、熊野古道紀伊路の道筋が潮見峠越えに変化したことにより、メインルートから外れた三栖王子は荒廃したものと見られ[13]、氏神でもないため幕末頃までには荒廃した[14]。村の旧蔵文書によると、寛政4年(1792年)に大工工役三百工をもって再建したとも伝えられる[12]が、紀州藩士児玉荘左衛門が藩命により寛文3年(1663年)から翌々年にかけて領内各地の名所旧蹟を探訪したのを機に再建された[13]ものと、同じ事情によるものであったと見られる。

慶応4年(1868年)5月の水害で社地が崩壊したため、近隣の八坂神社境内に遷祀され、さらに1909年(明治42年)に八坂神社が上三栖の珠簾神社(みすじんじゃ)に合祀され、以後、同神社の境内摂社である[15]旧社地はミカン畑になっており、遺物と三栖山王子社跡碑は丘の上にある[14]。これらの遺物や碑は、近在の報恩寺の住職が散逸を危惧し、保存に努めたものである[12]。田辺市指定史跡(1988年〈昭和63年〉3月5日指定)[3]

  • 所在地 田辺市下三栖444-2
22
9月

万呂王子

秋津王子を発ち、左会津川沿いに東南に進んだ北岸に、王子屋敷と呼ばれる田圃があり、ここが万呂王子(まろおうじ)である[10]。「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条に「超山参丸王子」とあるが、現存地の地形や社殿の向きと一致せず、古くは違う場所にあった可能性もある[11]。江戸時代まで存続したものと見え、『和歌山県聖蹟』には万呂王子に言及した参詣記が引用されている[10]

  • 所在地 田辺市上万呂430-1
22
9月

古道中辺路

22
9月

秋津王子

秋津王子(あきつおうじ)は、会津川河口にかかる龍神橋の付近の旧柳原村周辺にあったと見られるが、水害のために会津川左岸沿いの南側、安井宮旧地笠松跡碑(田辺市下万呂字落合719)が現在建つあたりに移転した(『紀伊続風土記』[8])。元禄6年(1693年)付の社蔵の棟札には「当社本在于柳原村三遷而勧請今安井村」[9]とあり、移転が繰り返されたことが分かる。

史料上の初出は「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条の「参秋津王子」とあるもので、『中右記』天仁2年の参詣記に見えないことから、この間に祀られたものと見られている[8]。この後、『熊野縁起』に「秋津」、『九十九王子記』に「アキツ」の記述が見られる。

幾つかの近世の史料によれば、奥行22・幅11間の社地には神社林があり、社殿の傍らには八百万神拝所なる末社があり、若一王子ないし若一王子権現と呼ばれた[8]。本地仏は十一面観音と伝えられる[9]