岩神王子(いわがみおうじ)は、中辺路の難所として知られた岩神峠にたたずんでいる。
熊瀬川をわたって草鞋峠を越え、そこから坂道を下って、栃ノ河(とちのごう、または「栃の川」とも)の河原にたどりつく。この栃ノ河は付近に栃の木が多かったことから名づけられたといい、『中右記』にも「都千の谷(とちのたに)」なる記述がある。このあたりは険しい道として知られ、しかも密生した樹木からヒルが降ってくるとして蛭降谷百八丁などと呼ばれた[25]。
江戸時代頃から、この谷を挟んで両側の峠への坂をそれぞれ女坂(草鞋峠側)、男坂(岩神峠側)、両方を合わせて女夫(めおと)坂と呼ぶようになり、これにちなんで河原にあった茶屋は仲人茶屋と称されたという。江戸時代後期にここを旅した文人の関心を惹いたようである[25]。栃ノ河の河原から、ところどころに石畳の残された男坂を登ると、小さな切通し状の峠の北側に王子址がある。
『中右記』10月25日条には、「石上の多介(いしがみのたわ)」の王子に参拝したとの記述がある。この時、近くに地方から熊野詣に参る途中の盲者がうずくまっており、宗忠は食料を与えたと述べている[26]。王子の名は『愚記』には「イハ神」、『建保御幸記』の参詣記には「石神」とあり、岩神の表記が定着するのは江戸時代以降のことである。江戸時代中期、享保・元文年間の頃までは茅葺の小祠が祀られていたが、寛政の頃には破損して扉も無く、囲い板も失われていた。『続風土記』が編纂された江戸時代後期には、社も印も無い旧址と化しているにもかかわらず、毎年祭日になると神酒が供えられていたと述べられている[27]。
明治期になってからの合祀廃絶も早く、1877年(明治10年)に湯川王子(後述)に合祀されたことに加え、峠道が廃道になったことから長らく所在地が不明になっていた。しかし、1965年(昭和40年)に道湯川林道が開かれて近辺の山林へのアクセスが容易になったことで、峠越えの旧道がまず確認され、次いで1960年代末頃から西律の調査[28]や中辺路町の関係者の努力により、王子の位置が明らかにされた[26]。
- 所在地 田辺市中辺路町道湯川岩神222