伏拝王子

分校跡地からすぐに参詣道跡は地道を辿る。植林地の中に続く道を抜けて伏拝の集落に出て、坂道を登り切ったあたり、伏拝字茶屋に伏拝王子(ふしおがみおうじ)がある。長く厳しい参詣道を歩いてきた参詣者たちが、熊野川と音無川の出会うところにある熊野本宮大社の旧社地(大斎原)の森を、はじめて望むことができたのがこの地である。

中世参詣記にはその名は見えず、『縁起』や『王子記』にも名が見られない。成立時期は相当遅いものと見られ、享保15年(1730年)の『九十九王子記』に、和泉式部供養塔とともに「伏拝村」はずれの道の左側にある、と述べられているのが初出である[10]。『道中記』には、

和泉式部供養塔 伏拝村はずれ道の左 伏拝王子 社なし同村はずれ道の左

とある[11]。もともとは両者は離れた場所にあったが、1973年昭和48年)に両方とも道の右側にある古道と農道に挟まれた丘の東側中腹に移されている[11]

和泉式部供養塔は、徳川頼宣が寄進したものである。笠塔婆の上に宝篋印塔の塔身と蓋を積み上げたものであり、延応元年(1239年)の銘がある[10]。この供養塔は、古くは現在地から古道沿いに西に戻ったところにある、60メートルほどの短い坂の左側にあったと伝えられていることから、町石のひとつであったと考えられている。この坂は地元で一里坂と呼ばれ、伏拝王子の近辺から本宮大社までの距離はほぼ1(4km)に相当することに由来する地名と考えられる。また、笠塔婆という形状も、町石に用いられる典型的なものである[11]

この王子にまつわる説話に、和泉式部が月のさわりに見舞われ、

晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき

と嘆いたところ、その夜、式部の夢に熊野権現が現われて、

もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき

と返歌し、参拝を許されたとするものがある[12]。この説話が広められたのは室町時代から南北朝時代にかけてのことであり、その担い手は一遍を開祖とする時衆であった。一遍は熊野の地で時宗の教義を得たが、その一つの核に、阿弥陀如来による救済には阿弥陀への信・不信を問わないとする無差別の思想がある。これを宣伝するために、和泉式部を引き合いに出したものと考えられている[10][12]

  • 所在地 田辺市本宮町伏拝字茶屋続157