逗子開成高校山岳部 唐松岳八方尾根遭難事故

僕が逗子開成高校を卒業する年にこの事故は起きた。

 1980年12月26日

古く1910(明治43)年の七里ヶ浜沖でのボート遭難事故で本校生徒11名と逗子小学校生徒1名の計12名の尊い命が失われましたが、それから約71年後の1980(昭和55)年12月末に高校山岳部のパーティーが八方尾根で遭難するという事件が起こりました。

この遭難事故の悲劇は顧問1名・生徒5名の計六名全員が冬山で遭難し、遺体発見まで4ヶ月以上を要したということだけでなく、補償をめぐり学園側と遺族とが3年以上もの長期にわたり「不毛の論争」を続け、しかも真の解決が見られなかったところにあります。事故はジャーナリズムでも盛んに取り上げられ、また、詳細な報告書(逗子開成高等学校事故報告書刊行委員会編『白いケルン』1990)も刊行されています。

深瀬先生のカメラに残された
山岳部部員の勇姿 長野県北西部の飛騨山脈後立山連峰の唐松岳(標高2696m)から東方に延びる尾根が八方尾根で、山岳部生徒と顧問の先生は冬休みを利用して雪上訓練に出掛けたのです。参加したメンバーは2年生の黒木精二(リーダー)・本間研一郎(サブリーダー)・伊賀田譲、1年生の野寺隆治・本間律夫と顧問の深瀬昌之介先生で、12月24日の夜新宿発23時20分の急行アルプス15号に乗り、北アルプス唐松岳登山へと向かいました。

一行の足取りは12月26日午後2時頃まで確認されていますが、例年にない豪雪の中、第三ケルン付近でルートを見失い、知らず知らずのうちに沢へと下ってしまったのだと考えられています。「あの豪雪の中では下降したら、絶対に戻れない」とは、北アルプス遭難対策協議会の蟹沢馨氏が全員の遺体発見後に語った言葉でした。

帰宅予定の27日夕刻を過ぎても戻ってこない息子の安否を気遣った黒木保夫氏(リーダーの黒木精二の父)から学校に連絡があったが28日午後で、学校では直ちに遭難の可能性を各方面に連絡し、校内に遭難対策本部を設置、夜には3名の教員を現地に向けて発たせたのです。

翌29日には、川本保校長と教員3名が現地に向かい、更に山岳部員の家族4名と教職員3名も出発しましたが、現地では雪嵐のためケーブル・リフトは運行中止、雪のため登山不可能、雪崩の危険もあり捜索救出は出来ませんでした。30日には長野県警の要請で出動した陸上自衛隊東部方面航空隊のヘリコプターが、午前9時50分、第二ケルン付近でオレンジ色のテントを発見しで着陸。「逗子開成高等学校山岳部」と書かれていることを確認しましたが、テント付近は無人で、テント内には寝袋・サブザック・食糧・炊事道具等が残されていました。この日の朝刊各紙は事故発生を「逗子開成高6名帰らず」と大きく報道しました。

捜索が難航する中、31日夜、県警・地元遭難対策協議会・家族・学校関係者が協議した結果、6名の生存は期待できないとして、捜索打ち切りが決定されたのです。

明けて1981(昭和56)年正月から、本校教員は交代で白馬に常駐し、情報収集・天候記録に当たり、安全が確保される範囲内での捜索活動に従事しましたが、教員の常駐は2月初旬をもって打ち切られました。

遭難生徒・顧問教員の遺体が発見されたのは、雪解けの始まる5月の連休の時期でした。人員を大量に投入して捜索を開始した矢先、5月1日朝サブリーダーであった本間研一郎の遺体が発見されたのです(確認は3日)。次いで4日には黒木精二・深瀬昌之介顧問、6日には本間律夫・伊賀田譲・野寺隆治の遺体が相次いで発見されました。遭難以来131日ぶりに全員が声無き姿で発見されたのです。

全員の遺体発見で、本来であれば事件は解決する筈でしたが、これからが本当の「事件」となるのでした。

遭難者の全遺体が収容され事件は解決するかと思われたのですが、事故処理をめぐる紛争が起こります。

遭難事故発生当初から、山岳部関係者6名の登山が「クラブ活動」であるか、「私的山行」であるかが、遺族側と学園側で争われていました。川本保校長と理事会は、山岳部顧問の深瀬昌之介先生からの届け出がなかったとして、6名の活動は「私的山行」であって「クラブ活動」ではなく、従って学校責任はないとの主張を続けました。この主張が遺族の憤激を買うのは当然でした。遺族側は、子どもたちの山行は山岳部顧問教諭が同行し、学校に登山計画が提出されている以上、正規のクラブ活動であると考えたのです。また学校内部で教職員の組合が二つに分裂しており、一方は遺族側主張を正当とし支援活動を展開したのに対し、他方は川本校長の主張を認めるというように対立を深め、学校は教育活動どころではなくなってゆくのです。

遺族と学校との対立は解消されることはなく、ついに1981(昭和56)年10月27日、遺族に代わって3人の弁護士から安井常義理事長・川本保校長に宛てて「申し入れ書」が送られてきたのです。内容は、

一、 正規のクラブ活動であることを認めよ
二、引率者の過失と、学校・学校長の責任を明確にせよ
三、損害賠償請求
など全8項目にわたるものでした。この申し入れ書では「誠意ある回答のない場合は法律上、相当の手続きをとる」とされていましたが、川本校長・安井理事長は「正規のクラブ活動とは認められない」との発言を繰り返し、安井理事長はことが法律問題となったことで、解決を代理人に委任し、自らの手で積極的に問題を解決することを放棄してしまったのです。学校側の「誠意ある回答」が得られないことで、1982(昭和57)年3月9日、生徒5人の遺族は学園と川本校長を相手取って、総額4億1300万円の損害賠償を求める訴えを横浜地方裁判所に提訴したのです。

第1回の口頭弁論が開かれたのは5月7日でしたが、裁判の争点は、彼らの山行が「クラブ活動」であるか、「私的山行」であるかのただ一点で、原告・被告双方の主張は真っ向から対立したままでした。

審理の進捗が見られない中、1883(昭和58)年3月18日、横浜地方裁判での第5回口頭弁論の中で、裁判長より遺族側・学校側に対して、和解のため話し合いを持つよう勧告がありました。両者はこの勧告を受け容れたのです。学校側がこの和解勧告に応じたのは、理事会役員の大幅な改編があったからです。新たに理事に就任した徳間康快は、自らの手による問題解決を放棄したともいえる安井理事長のもとでの理事会の中で、問題解決に向けて精力的に動きました。

理事会のそうした変化のなか、和解の話し合いは続けられ、翌年1月27日の第5回目の話し合いで和解が成立しました。和解内容は、5名の生徒の各家庭にそれぞれ4160万円(総額2億800万円)を支払うというもので、「逗子開成高等学校生徒の山岳遭難事故」と断った上で、学校側・裁判所側が、この遭難を私的登山ではなく学校行事であると認めたのです。また、遺族に支払われるのも「過失責任を負う賠償」でした。

合同慰霊祭祭壇 遺族は「和解内容の細部に不満は残るが、不毛の論争に終止符を打つことにした」とのコメントを発表しました。

和解が成立したことを受けて開かれた1984(昭和59)年2月20日の理事会で、安井常義理事長・川本保校長の責任が追及され、両者の辞任が決定しました。新理事長には理事を務めていた徳間康快が就任しました。

学園は新たな理事会役員で長期に亘った紛争の処理、学園再建を行なうことになったのです。

新年度が始まって一段落した頃、4月28日に本校体育館で合同慰霊祭が行なわれました。祭壇には、在校生・教職員・父母が折った折鶴約四万五千羽で模した八方尾根とケルンを背景に、白菊の花で縁取りされた六名の遺影と携行品であったピッケルとザイルが供えられ、3年4ヶ月前に逝った6人の御霊をお迎えし、多くの人々が慰霊の言葉を捧げたのです。

現在、八方ケルンに碑文プラークがある。