22
9月

多富気王子

多富気王子(たふけおうじ、たぶけおうじ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社旧蹟。九十九王子の最後の一社である。大門坂登り口にほど近い、夫婦杉からすぐ上部のところにある。

中右記』、「熊野道之間愚記」(『明月記』所収)、『修明門院参詣記』といった主要な中世参詣記には見られず、史料上で確認できるのは近世の地誌・旅行記の類においてである[1]。『紀南郷導記』(元禄年間)には近隣の市野々村の小字である二ノ瀬にある若一王子社の小祠として記述され、寛政6年(1794年)の『熊野巡覧記』には児宮とある。

起源や由緒など、不明なところが多い。「手向け」から転じたとする説や[2]、この王子社を設けた那智山の社僧の名にちなむとする説(『那智勝浦町史』[1])、那智山参詣の祓所とする説などがある。『紀伊続風土記』では若宮の名の他、道祖神を祭神とする旨の記述が見られる。江戸時代には社殿があったと伝えられているが、1877年明治10年)に熊野那智大社摂社のひとつ児宮として境内に移され[2]、跡地には石碑と庚申塚のみが残されている[3]。和歌山県指定史跡(昭和33年〈1958年〉4月1日指定)[4]

22
9月

市野々王子

市野々王子(いちののおうじ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。熊野九十九王子のひとつ。境内は市野々王子跡として、国の史跡「熊野参詣道」の一部(2000年平成12年〉11月2日指定)[1]

歴史

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市野々王子の創建は明らかではないが、古くから熊野那智大社末社であって[2]、修造費用が同社によって負担されていた。中世熊野詣の参詣記にその名が見られることから、遅くとも中世までには確立されていたものと考えられており、藤原宗忠の参詣記(『中右記』)には「一野」、修明門院の参詣記には「一乃野」の名で登場する[2]

那智参詣曼荼羅において二瀬橋のすぐ手前に描かれている小社が市野々王子であろうと推定されている。『紀伊続風土記』は、往来する多くの参詣者を相手にが立ったことが社名の由来であるとしているが、室町時代から戦国時代の史料はもっぱら「一野」であって、市野々王子または若女一王子の社名が定着したのは近世のことである[2]

社地については諸説あり、もとから現在地にあったとする説と、100 mほど北側の文明の岡という場所が旧社地であり、それが近世に移設されたものだとする説がある[3]。文明の岡には、明治はじめまで金毘羅社があったが、1873年明治6年)に市野々王子が王子神社の社名で那智大社から独立した際に合祀されている

22
9月

浜の宮王子

熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)、または大神社(おおみわやしろ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社。夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三神を主祭神とすることが名称の由来とされる。主祭神像三躯は重要文化財に指定されている(美術工芸品、1982年昭和57年〉6月5日指定)[1]

九十九王子のひとつである浜の宮王子の社跡[注釈 1]に建つため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも呼ばれる。浜の宮王子の守護寺である補陀洛山寺が隣接しており、神仏習合の名残をみることができる。境内は浜の宮王子社跡として、国の史跡「熊野参詣道」の一部(2000年平成12年〉11月2日指定)[2]

22
9月

佐野王子

佐野王子(さのおうじ)は和歌山県新宮市にある神社旧址。熊野九十九王子のひとつ。県指定史跡(1959年昭和34年〉1月8日指定)[1]

佐野王子の創建年代は明らかではなく、承元4年(1210年)の修明門院参詣記に初出する[2]江戸期の地誌『紀伊続風土記』は、熊野那智大社の境外末社となった後、廃絶したと伝えている。それによれば、佐野王子の跡地は若一王子森と呼ばれており、周囲230(約420メートル)の立派な森であったという[2]

しかし、他の記録には、本来の佐野王子とは近くの王子川河畔に設けられた祓所が転じたものであるとされ、この祓所を継承したと見られる若一王子神社が明治まで存続していた。この神社は、1911年(明治44年)10月26日付で、新宮市佐野山田の天御中主神社(あめのみなかぬし)神社に合祀廃絶された[3][4]。その後も1926年(大正15年)の和歌山県の調査では、王子橋から約2(約230m)の松林の中に3(約90cm)四方の小祠があったとしているが、『新宮市誌』[5]には倒壊して失われたと述べられている[3]

現在地は王子橋の北約80メートルの位置にあり、「王子跡」と刻銘された石碑および説明版、さらに碑の北側約10メートルに北条政子の宝筐印塔、地蔵群、南側約40メートルに神武天皇聖績狭野顕彰碑がある[3][4]

所在地

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  • 和歌山県新宮市佐野641
22
9月

浜王子

浜王子(はまおうじ)は和歌山県新宮市にある神社。熊野九十九王子のひとつ。県指定史跡(1959年昭和34年〉1月8日指定)[1]

浜王子の創建年代は明らかではないが、伝承によれば、神武東征の際に熊野灘で嵐に遭った際、自らの身を投じて嵐を鎮めた2柱の神、稲飯命と三毛入野命を祀ったのが起源であるという[2]。この伝承に見られるように、古くから海の神を祀る海浜の宮であったと考えられるが、熊野信仰の発展とともに熊野権現の御子神を祀る王子社として知られるようになったと見られる[3]

承元4年(1210年)の修明門院参詣記の5月4日条には、新宮・那智の間に阿須賀、高蔵、佐野、一及野の4つの王子社の存在が言及されているが、浜王子の名は見当たらず、史料上の初見は、文明5年(1474年)の『九十九王子記』に「浜王子」と記されているものである[4]。その後、江戸期に入ると『紀伊続風土記』に方36余(約120cm)の小祠と5尺(約165cm)の鳥居からなる「浜王子社」についての記述が見られる。14世紀前半にはかなりの社格があったと見え、元亨2年(1322年)には武蔵国豊島郡東京都北区)の領主であった豊島右近太夫景村なる人物が自領に勧請した(王子神社)と伝えられる[5]

1879年明治12年)に阿須賀神社に合祀されたが、1926年大正15年)に村社として独立した[6]。戦前までは松林に囲まれたゆったりとした景観を誇り、78(約258平方メートル)の境内地には現在の大浜(王子ヶ浜)の海浜地をも含んでいたと言う。その当時の景観は旧『新宮市誌』所収の写真で確認できるが、今日では周囲が住宅地化したことで失われた[2]。これは、1946年昭和21年)の南海大地震により、応急に住宅建設の要に迫られたことから、社地を含む周囲の国有地が払い下げられたことによるものである[7]

22
9月

祓戸王子

伏拝王子を過ぎると道は再び地道が続き、本宮町九鬼で小辺路と合流する。小辺路との合流点にはかつて関所があり、茶屋が設けられていたことから三軒茶屋跡とも呼ばれる。尾根伝いの道を進んで最後の坂を下りきり、団地の中を抜けて、やがて小さなドーム状の樹叢が見えてくる。この樹叢に守られるように立つのが祓戸王子(はらいどおうじ、史料によっては「祓殿」「祓所」などの別表記あり)である。ここから本宮大社の旧社地まではわずかな距離し かなく、本宮参拝の直前に身を清める潔斎所としての性格を帯びていたと見られる[13]

江戸時代の神社誌『南紀神社録』には王子社と天神社が現在地にあったと伝えており、さらに『官幣大社熊野坐神社年表』には、1907年(明治40年)に摂社産土田神社を末社祓戸天神社に移したとあり、社の性格は定まらない。旧くは樹叢そのものが潔斎所としての性格を帯びていたものが、王子社に転じたものと考えられる[14]

木立の左側には、明治初期まで医王寺という寺院があった。『愚記』10月16日条に、発心門を発った後鳥羽院一行の到着を待つ間に休息をとった地蔵堂の跡地である。現在では、道の傍らにある石仏がわずかにその痕跡を伝えている[15]

  • 所在地 田辺市本宮町祓戸1077
22
9月

伏拝王子

分校跡地からすぐに参詣道跡は地道を辿る。植林地の中に続く道を抜けて伏拝の集落に出て、坂道を登り切ったあたり、伏拝字茶屋に伏拝王子(ふしおがみおうじ)がある。長く厳しい参詣道を歩いてきた参詣者たちが、熊野川と音無川の出会うところにある熊野本宮大社の旧社地(大斎原)の森を、はじめて望むことができたのがこの地である。

中世参詣記にはその名は見えず、『縁起』や『王子記』にも名が見られない。成立時期は相当遅いものと見られ、享保15年(1730年)の『九十九王子記』に、和泉式部供養塔とともに「伏拝村」はずれの道の左側にある、と述べられているのが初出である[10]。『道中記』には、

和泉式部供養塔 伏拝村はずれ道の左 伏拝王子 社なし同村はずれ道の左

とある[11]。もともとは両者は離れた場所にあったが、1973年昭和48年)に両方とも道の右側にある古道と農道に挟まれた丘の東側中腹に移されている[11]

和泉式部供養塔は、徳川頼宣が寄進したものである。笠塔婆の上に宝篋印塔の塔身と蓋を積み上げたものであり、延応元年(1239年)の銘がある[10]。この供養塔は、古くは現在地から古道沿いに西に戻ったところにある、60メートルほどの短い坂の左側にあったと伝えられていることから、町石のひとつであったと考えられている。この坂は地元で一里坂と呼ばれ、伏拝王子の近辺から本宮大社までの距離はほぼ1(4km)に相当することに由来する地名と考えられる。また、笠塔婆という形状も、町石に用いられる典型的なものである[11]

この王子にまつわる説話に、和泉式部が月のさわりに見舞われ、

晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき

と嘆いたところ、その夜、式部の夢に熊野権現が現われて、

もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき

と返歌し、参拝を許されたとするものがある[12]。この説話が広められたのは室町時代から南北朝時代にかけてのことであり、その担い手は一遍を開祖とする時衆であった。一遍は熊野の地で時宗の教義を得たが、その一つの核に、阿弥陀如来による救済には阿弥陀への信・不信を問わないとする無差別の思想がある。これを宣伝するために、和泉式部を引き合いに出したものと考えられている[10][12]

  • 所在地 田辺市本宮町伏拝字茶屋続157
22
9月

水呑王子

発心門王子から林道を下って、小集落の中を抜けてゆくと本宮町萩に出る。集落のなかの道を進み、右手に分かれる林道に上がって2km弱のところに水呑王子(みずのみおうじ)があり、緑泥片岩碑が立っている。

和歌山県聖蹟』では『愚記』を根拠に水飲王子の名を採り、現在もその名で呼ばれているが、中世の参詣記(『中右記』『愚記』)には内水飲王子と明記されており、『縁起』や『王子記』も同様の王子名を記録している[6]ことから、16世紀末頃までは内飲水と呼ばれていたことがわかる。古くは、高原(田辺市中辺路町)にも「水飲」なる地名があったと『中右記』にあり、『縁起』や『中右記』の記述からすると本宮から3日行程と見られることから大門王子の近辺と推定されている[7]。これら2つの地名を区別するため、また、発心門のうちにあって本宮に近いことからこのように呼ばれたようである[8]

『続風土記』には「水呑王子」の名が見られることから、現在の名が定着したのは遅くとも江戸時代以降と見られる。現在地は、三里小学校三越分校の校地跡であり、校地の工事のために少なくとも2度、移動させられている[6][9]

  • 所在地 田辺市本宮町三越字大横手1416-1
22
9月

猪鼻王子

猪鼻王子(いのはなおうじ)は、三越峠一帯を源流とする音無川(おとなしがわ)の河畔にある。本宮町萩から三越峠を結ぶ林道が拓かれ、参詣道の跡はとどめられておらず、王子址には林道から河原に下りて行かねばならない。現在ではわずかに紀州藩の碑が残るのみである。

『愚記』に「猪鼻」とあり、『中右記』『頼資卿記』には谷川を数度わたって猪鼻王子に着いたとある[5]が、その後の熊野詣の衰微に伴って廃絶した。『郷導記』にも、谷川にかかる板橋をわたりながら進んだとあり、ほとんど道筋に変化が無かったことが分かる。次の発心門王子までは、猪鼻王子からごく近いところから山道を登って行った様が伝えられているが、現在ではその跡をたどることはできない。

  • 所在地 田辺市本宮町三越字猪鼻1811
22
9月

湯川王子

湯川王子(ゆかわおうじ)は、岩神峠のふもと、湯川川の源流域の谷間にある。『為房参詣記』は、三階(みこし、現在の三越峠)の手前に内湯川(うちゆかわ)なる地名を記している[29]。王子の名の初見は、『中右記』10月25日条の「内湯参王子」、『愚記』10月15日条にある「王子湯河」で、このころに湯川王子の名が定着したと見られる[30]。参詣の途上、宿泊や休憩をすることが多く、皇族・貴紳の宿所が設けられた[29]

湯川一帯は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に威勢を誇った湯川氏の発祥の地とする伝承があり、応永34年(1427年)に足利義満の側室・北野殿が参詣した際には、奥湯川氏を名乗る豪族の一党が兵を従えて接遇を行っている。

江戸時代には、本宮の湯川(下湯川村)と区別するために道湯川村(どうゆかわむら)と呼ばれ、王子は若一王子社として祀られた。明治期には王子神社と呼ばれ、住人たちの氏神であったが、明治末年に社殿を残して金毘羅神社(近野神社)に合祀された[30]。道湯川村はもともと山中の辺地の小集落で、明治に入っても和歌山県内唯一の義務教育免除地とされたほどであった[31]

加えて、国道311号が三越峠の険路を避けて敷かれて交通路から取り残されたこともあって住人の退去が進み、1956年(昭和31年)には無住の地となって[31]、社地も廃墟と化した[30][29]。現社殿は、1983年(昭和58年)に再建されたものであり、以来、旧住人たちが祭祀を執り行っている[32]

  • 所在地 田辺市中辺路町道湯川字王地谷20
22
9月

岩神王子

岩神王子(いわがみおうじ)は、中辺路の難所として知られた岩神峠にたたずんでいる。

熊瀬川をわたって草鞋峠を越え、そこから坂道を下って、栃ノ河(とちのごう、または「栃の川」とも)の河原にたどりつく。この栃ノ河は付近に栃の木が多かったことから名づけられたといい、『中右記』にも「都千の谷(とちのたに)」なる記述がある。このあたりは険しい道として知られ、しかも密生した樹木からヒルが降ってくるとして蛭降谷百八丁などと呼ばれた[25]

江戸時代頃から、この谷を挟んで両側の峠への坂をそれぞれ女坂(草鞋峠側)、男坂(岩神峠側)、両方を合わせて女夫(めおと)坂と呼ぶようになり、これにちなんで河原にあった茶屋は仲人茶屋と称されたという。江戸時代後期にここを旅した文人の関心を惹いたようである[25]。栃ノ河の河原から、ところどころに石畳の残された男坂を登ると、小さな切通し状の峠の北側に王子址がある。

『中右記』10月25日条には、「石上の多介(いしがみのたわ)」の王子に参拝したとの記述がある。この時、近くに地方から熊野詣に参る途中の盲者がうずくまっており、宗忠は食料を与えたと述べている[26]。王子の名は『愚記』には「イハ神」、『建保御幸記』の参詣記には「石神」とあり、岩神の表記が定着するのは江戸時代以降のことである。江戸時代中期、享保・元文年間の頃までは茅葺の小祠が祀られていたが、寛政の頃には破損して扉も無く、囲い板も失われていた。『続風土記』が編纂された江戸時代後期には、社も印も無い旧址と化しているにもかかわらず、毎年祭日になると神酒が供えられていたと述べられている[27]

明治期になってからの合祀廃絶も早く、1877年(明治10年)に湯川王子(後述)に合祀されたことに加え、峠道が廃道になったことから長らく所在地が不明になっていた。しかし、1965年昭和40年)に道湯川林道が開かれて近辺の山林へのアクセスが容易になったことで、峠越えの旧道がまず確認され、次いで1960年代末頃から西律の調査[28]や中辺路町の関係者の努力により、王子の位置が明らかにされた[26]

  • 所在地 田辺市中辺路町道湯川岩神222
22
9月

熊瀬川王子

熊瀬川王子(くませがわおうじ)は、小広峠を下って熊瀬川をわたり、草鞋峠へ登る道の傍らにある。地名としての熊瀬川は、『承元参詣記』5月1日条で、熊瀬川で昼食を取ったという記述に見られ、『寛喜参詣記』11月5日条には、近露を発ち、やはり熊瀬川で昼食をとったと述べられている[23]。しかし、「熊背川王子」の名が見出される史料はわずかに『熊野縁起』1篇に過ぎず、王子間の平均的な距離は2キロメートルから3キロメートルほどあるが、小広王子からの距離はせいぜい1キロメートルほどしかなく、設立年代も含めて疑問が残る[24]

熊瀬川とはもともと、小広峠一帯を源流域とする谷川だが、同時に草鞋峠の登り口一帯を指す地名であって、その旨が元文4年(1739年)の『熊野めぐり』に明言されている。また、『続風土記』では「小名熊瀬河は小広峠にあり」としている。これらから、小広王子と熊瀬川王子は同一の王子の可能性もある[24]

22
9月

小広王子

小広王子(こびろおうじ)は、中ノ河王子から続く小さな峠にある。『中右記』10月25日条に、「仲野川王子」に奉幣の後、「小平緒(こびらお)」「大平緒(おおびらお)」を経て岩神峠に向かったとし、『愚記』も「中ノ河」の次は「イハ神」と述べている。いずれも王子社の存在は述べられておらず、成立はその後と見られる[20]

『道中記』(享保7年〈1722年〉)に「小広尾」なる王子の名が登場するのが史料上の初出だが、既に社は失われていたという。紀州藩が緑泥片岩碑を建てたが、1909年(明治42年)に近露の金比羅神社(近野神社)に合祀廃絶された。

1899年(明治32年)および1930年(昭和5年)と2度にわたる県道(現・国道311号)の道路改修で小広峠の道筋が大きく掘り下げられたことにより、跡地は消滅し[20][21]、碑も現在地に移された[22]。碑は上部が欠損しており、下部の「王子」の文字がわずかに読み取れるのみの状態である[21]

  • 所在地 田辺市中辺路町野中字小広1
22
9月

中ノ河王子

中ノ河王子(なかのかわおうじ)は、継桜王子のある野中集落を出て、高尾隧道口を過ぎてまもなく、国道の側方の山中にある。旧址には、紀州藩の緑泥片岩碑があるばかりである。『中右記』10月24日条には「仲野川仮屋」の名で既に登場しており、『愚記』10月14日条に「中の河」なる王子の名が挙げられている[18]

『王子記』には「中河」、『続風土記』には「中川王子碑」とあり、近世には「中川」「中河」と表記された[18]。近世には、『道中記』に社がないと述べられ、『続風土記』にも同様の記述がある[19]。享保8年(1723年)には紀州藩が緑泥片岩の碑を建てたが、碑だけしかないことから、1909年(明治42年)に金毘羅神社(近野神社)に合祀された[19]

  • 所在地 田辺市中辺路町野中字高尾2177
22
9月

比曽原王子

比曽原王子(ひそはらおうじ)は、近露道中から約2キロメートルほどの国道沿いの土手の草叢のなかにあり、緑泥片岩の碑のみが遺されている。社祠があったあたりは杉植林地になってから時間がたっており、痕跡は見出せない。道中からは茶屋坂を登って国道に一度合流し、楠山坂を登ってゆく。

比曽原王子の名は『愚記』や『熊野縁起』に見られるが、早い時期に退転したようである[16]元文4年(1739年)の参詣記『熊野めぐり』には、近隣の住人に尋ねてもその由来を知る者がいなかった、と述べられている。

この近くには手枕松というマツの名木があったと伝えられ[17]、江戸時代の文人の紀行文の類では、こちらの方がむしろ関心を集めていたようである。

  • 所在地 田辺市中辺路町野中字比曽原1143
22
9月

大阪本王子

大阪本王子(おおさかもとおうじ)は、大阪峠(逢坂峠)の麓にあることから名づけられたと見られる。逢坂峠は近露側から登るには相当の急坂であることから、古くから大坂と呼ばれており、『為房参詣記』10月7日条に「大坂之草庵」、『中右記』10月14日条に「大坂本王子」の地名が登場している[13]

江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記され、『続風土記』には社殿はなく碑のみとし、御幸記より大坂本王子の跡地と推定しているが、『熊野詣紀行』には小社ありと述べられている[14]1909年(明治42年)に近露の近野神社に合祀され、廃絶[13]。『続風土記』は大坂王子と記された碑があったと伝え、『熊野詣紀行』は小祠があったとしている[14]が、いずれも明治末年以降、行方が知れない[15]。現比定地に遺されている笠塔婆は、他に見られるものと同じく鎌倉時代後期に造立された町石卒塔婆である。

  • 所在地 田辺市中辺路町近露逢坂2511
22
9月

十丈王子

十丈王子(じゅうじょうおうじ、重点王子〈じゅうてんおうじ〉[10]とも)は大門王子から2キロメートルあまり、上田和への上りに差し掛かる十丈峠(じゅうじょうとうげ)の付近にある。「重照王子」[11]とまれに記されるが誤記である[10]。中世参詣記には重點(じゅうてん)の地名および重點王子の社名で登場し、『中右記』10月24日条に雨中に重點を通過したとあり、王子の名は『愚記』10月14日条に初見する[10]。また、『承元参詣記』4月30日の条では、重點原で昼食をとってから、王子に参詣したとしている。

重點の名が十丈に転じた理由は明らかではないが、時期としては江戸時代以降のことで、『紀伊続風土記』には「十丈王子社境内周三十間」とある[10]。江戸期には茶店などを営む小集落が近辺にあり、王子神社として祀られていた。明治時代以後は村社とされたが、1908年(明治41年)春日神社(田辺市大塔村)に合祀され社殿は撤去された、1970年代始め頃までには集落からも住人が退去し、一帯が竹藪に帰していた時期があったという[12]

22
9月

大門王子

大門王子(だいもんおうじ)は、高原集落から十丈峠へ向かう山道の右手にある。『愚記』や『中右記』に言及はなく、『道中記』(享保7年〈1722年〉)に社殿なしとしてこの王子の名が登場するのが史料上の初出であることから、中世熊野詣以後の時代に建てられた王子と見られている[7]。大門の名の由来は、この付近に熊野本宮の大鳥居があったことによるという。

以前は見事な松の大木があったが、マツクイムシの食害で枯死し、伐られた。その後、朱塗りの社殿が建てられ[8]、町石卒塔婆と緑泥片岩碑はその背後に隠れてしまっている。定家・宗忠の参詣記、さらに古くは増基の『いほぬし』も、この付近に水呑仮宿所ないし山中宿なる宿所にふれているが、大門王子付近にあったものと見られている[9]

  • 所在地 田辺市中辺路町高原707-2
22
9月

不寝王子

不寝王子(ねずおうじ)は、滝尻王子の後背にそびえる剣山(371メートル)への急坂の途中、最初に出会う王子である。不寝王子の名は、中世の記録には登場しない。江戸後期の地誌『郷導記』(元禄年間)での記述が史料上の初出である。そこでは、ネジないしネズ王子と呼ばれる小祠址についての記述があり、「不寝」の字を充てるとしているが、その存在は不明確であるともしている。『続風土記』ははっきり廃址と断じており、滝尻王子に合祀されていると述べている[6]

  • 所在地 田辺市中辺路町栗栖川字平原
22
9月

鮎川王子

鮎川王子(あゆかわおうじ、あいかわおうじ[29])は、一ノ瀬王子から富田川を北上した対岸にある。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、冠千早袴着神像を祀り、本山派山伏貴明院が社役を勤めていたという[29]

『明月記』建仁元年(1201年)10月13日条に「次参アイカ王子」とあり、『熊野縁起』や『九十九王子記』にも「鮎河」との記述が見られる[30]

1874年(明治7年)に対岸の住吉神社に合祀された際、18世紀前期に建立された本殿も移設され[31]て今日に伝わるが、その後の道路改修により旧社地周辺の往時の面影は完全に失われた[29]1889年(明治22年)の水害までは、社地の前の河原に「王子田」と呼ばれる水田があり、後背の山は「王子山」「権現山」などと呼ばれたという[32]

旧社地には鮎川王子碑と大塔宮剣神社碑が建てられている[32]。田辺市鮎川地区は、大塔宮護良親王元弘の乱で敗北ののち、大塔山中に落ちのびたとする落人伝説の地であり[33]、大塔宮剣神社の創建の由緒は大塔宮にまつわるものであると伝えられている[32]

鮎川王子跡は和歌山県指定史跡(1966年〈昭和41年〉12月9日指定)[3]

  • 所在地 田辺市鮎川659
22
9月

一ノ瀬王子

一ノ瀬王子(いちのせおうじ)は、稲葉根王子跡の岩田神社から富田川(岩田川)沿いに進み、一ノ瀬橋を渡った富田川左岸にある。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、蛇形の石を神体とし、本山派山伏威徳院が社役を勤めていたという[23]

史料上には、『明月記』建仁元年(1201年)10月13日条に「一ノ瀬王子」とある[24]ほか、寛喜元年(1229年)の藤原頼資の独参記に「於石田一瀬昼養」、 吉田経俊の『経俊卿記』建長6年(1254年)2月7日条や康元2年(1257年)閏3月28日条に記述が見られる[25]

一ノ瀬は富田川の渡河点であることから、水垢離の場として重んじられ[26]、『源平盛衰記』巻40の平維盛の熊野詣記にも岩田川にて垢離をとったと記され、『熊野縁起』にも祓の場所と述べられている[25]。その後も、足利義満の側室北野殿の熊野参詣記『熊野詣日記』応永34年(1427年)9月26日条に、中世熊野詣の故事にちなんで垢離をとったとあるほか、文明5年(1474年)の『九十九王子記』にも、その名が見られる[25]

宝暦14年(1764年)の古記録(興禅寺蔵)によれば、近世初頭に既に廃絶しており、そもながらく不明なままであったが、紀州藩の調査で旧社地が確定され、再興された際の棟札が伝えられている[23]。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、建前3尺四方、表口2間・裏口1間の拝殿、境内は奥行き4間・幅3間であったという[23]。1907年(明治40年)、対岸の春日神社に合祀され、以来、小祠と高さ2mほどの石碑が旧社地にのこされている[27]

旧社地は和歌山県指定史跡(1955年〈昭和33年〉4月1日指定)[28]

22
9月

八上王子

八上王子(やかみおうじ、やがみおうじ)は、三栖王子から県道上富田南部線沿いに三栖谷峠を越えて坂道を下った、高畑山の山麓にある。前出の『田辺領神社書上帳』によれば、本地仏は十一面観音[16]

史料上の初見は西行の歌集『山家集』所収の歌の詞書に「八上の王子」とあるもので、『西行物語絵巻』にも当時の社地の様子が描かれている[16]。その後、『明月記』所収の後鳥羽院参詣記建仁元年(1201年)10月13日条に「ヤカミ王子」とあるほか、『熊野縁起』(仁和寺蔵、正中3年〈1326年〉)の道中次第に「八上大岡」の記述が見られる[17]。『明月記』に先立つ『中右記』天仁2年(1109年)10月22日条に、田辺を発ち、 50ほど進んで「荻生山口」を通過、さらに山を越えて「新王子社」にて奉幣したとあり、距離などから推定して創建されて間もない頃の八上王子のことだと考えられている[16]

近世に熊野参詣の道筋が潮見峠越えに変化してからは、熊野参詣者の参拝は途絶えたが、宝暦10年(1760年)の聖護院門跡の熊野参詣の際には、下三栖の道端で八上王子の方向に向かって誦経したという(「宝暦十年指出帳」)[17]

近世を通じて近隣の岡の産土神として崇敬され、『田辺領神社書上帳』によれば、建前55四方、表口3間裏口2間の拝殿のほか、末社として若宮・大般若経堂があり、境内は奥行き18間・幅7間であったという[16]。1907年(明治40年)にいったん合祀された後、1915年(大正4年)に八上神社として再び独立した[18]

八上神社境内は名勝南方曼荼羅の風景地(2015年〈平成27年10月7日指定)の一部[3]。境内には前述の歌集にちなむ西行歌碑が1916年(大正5年)に建立されたが、風化による損傷が著しいため、1987年(昭和62年)に建てかえられている[19]

例祭は古くは9月9日であったが、現在は毎年11月29日で、十数種におよぶ多彩な獅子舞が演じられる[20][21]。例祭は「岡の獅子舞」として和歌山県指定無形民俗文化財(1972年〈昭和47年〉4月13日指定)[22]である。

22
9月

三栖王子

万呂王子を発ち、左会津川を東に渡った小高い丘の上にあるのが、三栖王子(みすおうじ、またはミスズ王子〈みすずおうじ〉[12]三栖山王子〈みすやまおうじ〉[13]とも)である。

『中右記』には見られず、「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条に「ミス山王子」とあるのが史料上の初出で、近世には、元禄7年(1694年)付の古記録『田辺領寺社改帳』によれば影見王子(影見王寺)の名で祀られたとある[13]。しかし、熊野古道紀伊路の道筋が潮見峠越えに変化したことにより、メインルートから外れた三栖王子は荒廃したものと見られ[13]、氏神でもないため幕末頃までには荒廃した[14]。村の旧蔵文書によると、寛政4年(1792年)に大工工役三百工をもって再建したとも伝えられる[12]が、紀州藩士児玉荘左衛門が藩命により寛文3年(1663年)から翌々年にかけて領内各地の名所旧蹟を探訪したのを機に再建された[13]ものと、同じ事情によるものであったと見られる。

慶応4年(1868年)5月の水害で社地が崩壊したため、近隣の八坂神社境内に遷祀され、さらに1909年(明治42年)に八坂神社が上三栖の珠簾神社(みすじんじゃ)に合祀され、以後、同神社の境内摂社である[15]旧社地はミカン畑になっており、遺物と三栖山王子社跡碑は丘の上にある[14]。これらの遺物や碑は、近在の報恩寺の住職が散逸を危惧し、保存に努めたものである[12]。田辺市指定史跡(1988年〈昭和63年〉3月5日指定)[3]

  • 所在地 田辺市下三栖444-2
22
9月

万呂王子

秋津王子を発ち、左会津川沿いに東南に進んだ北岸に、王子屋敷と呼ばれる田圃があり、ここが万呂王子(まろおうじ)である[10]。「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条に「超山参丸王子」とあるが、現存地の地形や社殿の向きと一致せず、古くは違う場所にあった可能性もある[11]。江戸時代まで存続したものと見え、『和歌山県聖蹟』には万呂王子に言及した参詣記が引用されている[10]

  • 所在地 田辺市上万呂430-1
22
9月

古道中辺路

22
9月

秋津王子

秋津王子(あきつおうじ)は、会津川河口にかかる龍神橋の付近の旧柳原村周辺にあったと見られるが、水害のために会津川左岸沿いの南側、安井宮旧地笠松跡碑(田辺市下万呂字落合719)が現在建つあたりに移転した(『紀伊続風土記』[8])。元禄6年(1693年)付の社蔵の棟札には「当社本在于柳原村三遷而勧請今安井村」[9]とあり、移転が繰り返されたことが分かる。

史料上の初出は「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月13日条の「参秋津王子」とあるもので、『中右記』天仁2年の参詣記に見えないことから、この間に祀られたものと見られている[8]。この後、『熊野縁起』に「秋津」、『九十九王子記』に「アキツ」の記述が見られる。

幾つかの近世の史料によれば、奥行22・幅11間の社地には神社林があり、社殿の傍らには八百万神拝所なる末社があり、若一王子ないし若一王子権現と呼ばれた[8]。本地仏は十一面観音と伝えられる[9]

1
1月

90 乾徳山

2023年12月21-22日

25
8月

材木沢 三等三角点 TR35339318901

杉沢の頭

25
8月

冠字選点番号[果]

冠字選点番号[果]

冠字選点番号[果]:基準点名
果1:岩岳
果2:富士峰
果3:小丹波
果4:海沢城山
果5:本仁田山
果6:境
果7:小中山
果8:伊予山
果9:月夜見山
果10:三頭山
果11:御前山
果12:澤入
果13:風張峠
果14:石宮
果15:松倍
果16:仏岩
果17:水久保
果18:馬頭刈山
果19:日ノ出山
果20:萓尾
果21:樋口入
果22:肝要
果23:勝保山
果24:戸倉城山
果25:農指
果26:[不明]
果27:小津
果28:臼杵山
果29:逸歩地
果30:中牟礼山
果31:千軒平
果32:猪丸
果33:戸谷
果34:北小曾木
果35:佐須澤
果36:坪谷
果37:金平山

24
8月

月夜見山三等三角点 TR35339500301

月夜見山山頂

北緯 35°45′27″.5471
東経 139°02′34″.9772
標高(m) 1146.98

 

 

24
8月

入笠山二等三角点 TR25338617301

北緯 35°53′46″.7617
東経 138°10′17″.7700
標高(m) 1955.36

24
8月

五臨 三等三角点 TR35438450501

山急山山頂

北緯 36°20′19″.5545
東経 138°41′48″.7984
標高(m) 991.93

 

24
8月

戸倉村二等三角点  TR25339414501

刈寄山[かりよせやま]山頂

北緯 35°42′03″.6164
東経 139°11′48″.6453
標高(m) 687.05

18
8月

夜叉ヶ池

18
8月

白馬八方尾根

10
4月

エベレスト山での 虚栄心、 汚染そして死

2013年07月26日 著者

パブロ・フィゲロアは文化人類学者で東京にある早稲田大学の准教授。熱心なハイカーで、山の生態系と高山での冒険を楽しむツーリズムの研究に関心を持つ。南米と東南アジアの多くの地域でのトレッキング経験を持つ。

1953年5月25日のエベレスト山初登頂記録から60年。最近になり、三浦雄一郎氏がこの世界一高い頂上への登頂に成功したことで、再び登山に注目が集まっている。80歳の三浦氏は、この3度目のエベレスト登山の成功により、世界最高齢記録を更新した(しかし、消耗した彼は自力で下山せず、6,500メートル地点からヘリコプターを使用したため、この記録の有効性については議論もある)。

三浦氏のヘリコプター使用は、かつて純粋な体力勝負であり、稀な冒険だったエベレスト登頂がどれほど一般化したかを象徴するものだ。実際、世界の最高峰には課題も山積し、増え続けているのだ。この生態系上の驚異というべき存在は今、ゴミと死体にまみれている。高山病の危険や登頂関連費用(通常は3万5,000ドルから12万ドルだが、三浦氏の2013年の登山では150万ドル)にもかかわらず、2012年春のエベレスト登頂者数は500人にのぼり、今年はすでに600人を超えている

今年6月にナショナル・ジオグラフィック誌が掲載した記事(満員のエベレスト。世界最高峰の惨状に解決策はあるのか)で、筆者のマーク・ジェンキンズ氏は、世界の頂点までの往復の途中で、4人の登山者の遺体を避けて通らなければならなかった体験を書いている。実際、2012年の登山シーズンには10人がエベレスト山の斜面で死亡した。これまでで3番目に多い数字だが、今年はすでに9人が命を落としている。これはエベレストにおいては異常な数ではなく、死者数が年々増加しているわけではないが、減少もしていない。

固定ロープで登る順番を待つ間、登山者は貴重な時間と酸素を失う。

なぜなのか、と疑問に思わざるを得ない。ベテランのガイドを雇い、先進の装備とテクノロジーを使い、きわめて精度の高い天気予報にアクセスできるのに、世界で最も有名な登山ルートで死者が減らないのはなぜなのだろうか?

大金を払ってでもエベレストに登頂したいという依頼人が増え続ければ、山の渋滞は避けがたい。

登頂日和(天候条件がエベレスト登頂に適している日)になると、山頂のすぐ下8,763メートル(28,750フィート)地点にある、ヒラリーステップと呼ばれる12メートル(39フィート)の岩と氷の壁を越えようと、固定ロープの前に数百人もの登山者が行列を作って2時間以上も待つ。ここは頂上に至る最後の難関だ。ステップの角度は45~60度だが、ほとんどの登山者にとっては「設置されたロープを使えば容易に登れる単純な難関」にすぎない。

しかし固定ロープで登る自分の順番を待つ間に、登山者は貴重な時間と酸素を失っている。体温が下がるにつれて体力は消耗し、凍傷や低体温障害の危険性も増す。

「28,000フィート(8,534メートル)で暖をとる」 写真:ディドリック・ジョンク

「28,000フィート(8,534メートル)で暖をとる」 写真:ディドリック・ジョンク

急性高山病によって登山者の判断力は大幅に低下する。登山を中止して下のキャンプまで安全に下山すべきか、といった生死を左右する判断が、困難あるいは不可能になるのだ。

個人をかき立てるのは成功への野心だ。ガイドにとっては、経済的恩恵と宣伝効果が、金を払ってくれた顧客を頂上に立たせなければというプレッシャーになる。しかし、死の領域においては、判断ミスのつけは多くの場合、人命で支払うことになる。

世界的な登山家のエド・ベスターズは最近、「すべての問題の原因は渋滞だ。登山者は酸素ボンベを使いきって倒れるか、引き返すべき時間を過ぎているのに強引に登り、闇の中を下山することになっている」と書いている

この問題に対処するために、エベレスト登山のルールを規定しているネパールの団体は、ヒラリーステップに固定の梯子をつけるというアイデアを思いついた。この団体によれば、これは渋滞を軽減し、登頂までの時間を短縮するのに役立つという。しかしベスターズ氏の意見では、岩に梯子を取りつけても問題解決にはならない。通路の狭さを考えると、それでも登るのに2~3時間はかかるからだ。

劣化する生態系環境

世界で最も望まれる山の課題は渋滞だけではない。サガルマータ(エベレストのネパール語名)登山は、環境に優しい活動とはほど遠い。数トンものゴミを回収し、登山者にゴミを持ち帰らせるといったクリーンアップのための取り組みにもかかわらず、頂上近くには空の酸素ボンベをはじめ、廃棄されたり落としたりした装備が散乱している。さらに、有効な排泄物管理システムがないために、登山者たちは数十年もの間、体の欲求のままにあらゆる場所で排泄してきた。その結果、雪の中には人間の便が堆積し、山中の氷河により、排泄物の噴出が時々起きている。

おそらく最も痛ましいのは、安全に動かせないために放置された遺体で、そのもの言わぬ姿は、極限の高さに到達しようという試みに伴う危険に注意を喚起している。数十年も横たわったまま、登山路の風景の一部になりつつある遺体もある

これまでに述べた課題に加え、山岳ツーリズムも、エベレストの生態系環境の劣化に追い打ちをかけている。1976年にネパール政府は、かつては手つかずだった地域の文化や動植物の保護のためにサガルマータ国立公園を作ったが、訪れる人の数は急増し続けている。登山以外にも、ヒマラヤにはトレッキングを楽しもうとする人々が毎年押し寄せる。2010年だけで、観光客、ガイド、ポーターを含めて10万人以上がエベレスト地域を歩いた。エベレスト・ベース・キャンプ(EBC)までの道は世界有数のトレッキング・ルートで、現代の多忙な観光客は、山岳ロッジにおいてもスピードと快適なサービスを要求する。

そうした多くの人々のニーズに応えることは、ゴミの増加、ロッジ建設と暖房のための森林破壊の拡大、山道の侵食などを意味する。

写真:パブロ・フィゲロア"

写真:パブロ・フィゲロア”

地球温暖化で氷山が減少したことによる水不足、人間や動物の排泄物による清水の汚染がもたらす水質汚染は、多くの環境活動家が警鐘を鳴らすまでになっている。

その一例が「この山の尊厳の回復」を目的としたプロジェクト、「Saving Mount Everest (エベレスト山を救おう)2011–2012」だ。廃棄物管理とリサイクル施設の欠如と社会構造の急速な変化(地域経済からサービス志向経済への移行など)が地域の持続可能性を脅かしている。この課題への対処を怠れば、この世界有数のユニークな生態系に回復不能な打撃をもたらしかねない。

幸いにも、課題への認識は高まっているようだが、連携の取れた長期にわたる持続可能性政策は、登山者やツアー事業者、山歩きをする個人らの私的な利害と衝突する可能性もある。

市場に誘導され、生態系が持続不可能な状況に陥ったエベレストを回復させることは可能なのだろうか? 登山許可数を減らし、登山隊の人数を制限し、ツアー業者を許可制として、廃棄物ゼロを実現すれば、エベレストの状態は改善できると提案する者もいる。

適切な保護の枠組みができたとしても、政治の現状をみれば、山岳ツーリズム規制を導入するのは難しいかもしれない。

しかしこうしたアイデアの実現は困難かもしれない。まず、ネパール政府の文化・観光・民間航空省は最近、ヒマラヤの環境保護に取り組むプロジェクトへの支持を示したが、中央政府は頂上を目指すグループ数の制限をあまり厳しくすることには消極的であるかもしれない。政府関係者は、そうなれば観光産業の収入の流れが減ると考えている上、ネパールはその収入に大きく依存している。エベレストの周辺地域にトレッキングにやってくる観光客数が激減すれば、地域経済への大きな打撃となる。

さらに、ネパール政府といえば、賄賂と非効率、そして今なお続く毛沢東主義派による暴力といった問題を抱えているのではなかったか。適切な保護の枠組みができたとしても、政治の現状をみれば、山岳ツーリズム規制を導入するのは難しいかもしれない。

表面的な勝利にどんな価値があるのか?

つまるところ、世界最高峰の惨状は社会問題であり、野心と自己虚栄の文化が市民権を獲得してもてはやされ、賞賛されたことに関係している。現在、エベレスト登山者の9割は、自己中心的な目的でエベレスト登頂を成し遂げたい人々だ。エベレスト登頂は高貴な希求ではなく、どんな代価を払ってでも成し遂げたいこととなり、エゴイスティックな目標の長いリストの一項目に過ぎなくなった。高山ガイドビジネスは、比較的経験は浅いが裕福な依頼人のそうした「勝利」への夢を収入源としている。

しかし、そうした「勝者」の真の価値には議論の余地がある。登頂成功者はヒーローのマントに包まれるが、ガイド付き登山の現実を見れば、ロープや梯子の固定といった重労働で特殊な仕事、ルートの設定、溶雪、食料の準備、そして、いつ先に進み、いつ引き返すかといった重要な決定のほとんどはポーターやガイドが行っている。

依頼人たちが、ほとんどの登山で酸素ボンベに頼っていることは言うまでもない。専門家によれば、こうした人工的手段なしでは、多くのエベレスト登山者は頂上にたどり着けないのだという。酸素ボンベの使用は山の高さを低くするのと同じだと純粋主義者は言う。

写真:パブロ・フィゲロア

写真:パブロ・フィゲロア

もちろん、登山者やガイドが悪人だと言っているわけではない。そして、エベレスト登頂の意義を誇張させた責任は彼らだけにあるわけではない。プロセスではなく結果に固執する家族や友人、そして社会全体が虚栄心を助長させている。私が2008年にエベレスト・ベース・キャンプを訪ねた時、エベレスト登頂を目指すのは二度目だという英国人の依頼人がこう言った。「初めてのエベレスト登山に失敗して国に帰ったときに、人々が知りたがったのは、私が頂上まで行けたかどうかだけでした。彼らは頂上以外には、全く関心がなかったのです」。

死者をなくし、山の生態系の環境劣化にブレーキをかけるためには、依頼人と事業者、登山コミュニティと社会全体が、ガイド付き登山とは一体何を意味するのかを再考し、定義し直すべきだ。エベレストの頂上を人類にとって最も驚異的な達成地点だと考えることは、私たちの現代文化の浅はかさを露呈することなのだ。

先に述べた記事で、ベスターズ氏は「最近、エベレストの状況はその人気のせいで悪化している。これ以上悪化させないようにしよう」と指摘している。

おそらくエベレスト保護の最善策は、その頂上と、登頂の栄光を過剰に評価するのをやめることだろう。その代わりとして、サガルマータを尊敬の念を込めて「宇宙の女神なる母」と見なしたヒマラヤの先住民族から学ぶべきなのだ。

翻訳:ユニカルインターナショナル

23
2月

入笠山

山頂より

23
2月

甲斐駒ヶ岳

23
2月

車山

10
8月

22 磐梯山

2022年8月11日(木)-13日(土)

8月11日(木)
■東京駅八重洲南口 23:50発 ドリーム福島・東京号
▼2600円
8月12日(金)
■郡山駅前 04:40着

■郡山駅(磐越西線)各停会津若松行 5:55発
▼680円 42分(9駅)
■猪苗代駅(磐越西線)6:37着
<タクシー>JR猪苗代駅から 猪苗代スキー場は約1,500円 (3.5km)
※タクシーがいなく1時間10分歩く。途中、土津神社(https://hanitsujinja.jp)により「會津中将源君之墓」を参拝。
■猪苗代スキー場 中央ゲレンデ
はやま第1リフト7:30(営業開始) 乗車時間11分
はやま第6リフト7:30(営業開始) 乗車時間9分
▼1,600円(税込)
■磐梯山山頂
▼裏磐梯スキー場経由
■裏磐梯登山口へ下山

■ゆ乃宿 湯流里
〒966-0501 福島県耶麻郡北塩原村檜原楢木平原1048−110
http://y-yururi.com/
0241342084

8月13日(土)
■猪苗代駅(磐越西線)
▼680円 42分(9駅)
■郡山駅(磐越西線)

■郡山駅前 15:45発 あぶくま号
▼2260円
■王子駅  19:21着

3
8月

登山家に愛されるEdelweiss

登山家はある日、地上に舞い降りた天使に恋をしてしまいました。しかし、この恋が叶わないことに苦しみ、天に向かって「この苦しみから救ってほしい」とお願いをします。

すると天使はエーデルワイスの花を地上に残し、天に帰っていった。

 

 

英名:Edelweiss
分類:キク科 ウスユキソウ属
学名:Leontopodium alpinum
別名:セイヨウウスユキソウ(西洋薄雪草)
誕生花:2/13、2/19、5/1、5/3、5/8、6/19、8/18
花言葉:高貴、崇高、初恋、思い出、初恋の感動、尊い記憶、勇気、大切な思い出、忍耐

名はドイツ語の edel(高貴な、気高い)と weiß(白)に由来する。

高度2000-2900mの高山帯の石灰岩地を好む。毒性はないのだが、古くから消化器及び呼吸器疾患に対する処方薬として民間療法で使用されてきた。

8
7月

白馬岳

強力伝

昭和二十六年 サンデー毎日第四十一回大衆文芸に応募、現代の部一等に入選、サンデー毎日中秋特別号に掲載。

昭和三十年、単行本刊行、第三十四回直木賞受賞。

 

【登場人物】
石田(気象庁職員)
石田の妻
小宮正作(足柄村出身、強力)
鶴子(正作の娘)
鹿野(四谷の山案内人)

昭和7年夏
御殿場駅
富士山頂観測所

昭和16年
~信濃四谷駅(現白馬駅)
~白馬別館(小宮の宿)
~二股 (花崗岩の置き場、四谷まで下って一里)
ー闊葉樹林帯
~猿倉
~白馬尻
ー高山灌木帯イタドリ草原
~大雪渓
~葱平(ねぶかっぴら)
~国境線間
~白馬山荘
~頂上

強力伝に出てくるコース

昭和16年10月、風景指示盤の落成式。 右から三人目が小宮のモデルとなった小宮山正(当時40歳)。

小宮山 正氏

 

 

 

 

 

 

五十貫(188キロ)の花崗岩でできた風景指示盤を、大雪渓ルートで白馬岳山頂に担ぎ上げた

 

白馬大雪渓白馬尻小屋1560m

8
7月

根子岳[62]

菅平高原 菅平牧場
ウメバチソウ
花の百名山 根子岳 2207m

菅平高原
根子岳 2207m
四阿山 2354m

8
7月

烏帽子岳[37]

上信越高原 国立公園
2066m
イワカガミ

5
7月

NMA(Nepal Mountaineering Association)

「トレッキングピーク」

「トレッキングピーク」という用語はネパール登山協会によって分類されたグループ「B」の、またはそれよりも簡単なものに関連付けられています。現在、合計15のグループ「B」があり、これらの山頂は、標高が7,000メートル(22,970フィート)を超えず、ハイキャンプを使用してベースキャンプから適度に登ることができます。

Service Charges for Foreign Climber per person in US dollar

S.N.Mountain/PeakIFAS GradeHeight (m.)DistrictCaravan RouteHimalayan RangeSpring(USD)
March-April-May
Autumn(USD)
Sept-Oct-Nov
Winter(USD)
Dec-Jan-Feb
Summer(USD)
June-July-August
1 Group "B"Chulu EastPD-6584mGandakiKtm-Beisahar-Ngadi-Jagat-Dharapani-BCDamodar400200100100
2 Group "B"Chulu WestPD-6419mGandakiKtm-Besisahar-Ngadi-Jagat-DharapaniManang2501257070
3 Group "B"Ganja-la Chuli (Naya Kanga)PD+5863mGandakiKtm-Dhunche-Sysbru Goan- Lama hotel-Kyanjin Gomba-Ganjala B.CLangtang Himal2501257070
4 Group "B"Hiunchuli?6434mGandakiKtm-Pokhara-Chomrong-Bamboo-BCAnnapurna2501257070
5 Group "B"Imja Tse(Island Peak)PD+6434mSagarmathaKtm-Lukla-Namche-Tyangboche-Pangpoche-Dingboche-chhukang-B.CKhumbu Himal2501257070
6 Group "B"Khongma Tse(Mehara Peak)?5849mSagarmathaKtm-Lukla-Namche-Dole-Mechermo-gokyo-Dughala-B.CKhumbu Himal2501257070
7 Group "B"Kusum KangruD+ ?6360mSagarmathaKtm-lukla-namcheThame-Khumjung-B.CKhumbu Himal2501257070
8 Group "B"KwangdeD ?6086mSagarmathaKtm-Lukla-Merala-Randimng-Hunde-B.CKhumbu Himal2501257070
9 Group "B"LobujePD+6090mSagarmathaKtm-Lukla-Namche-Thame-RermoPokhari-Gokya-dzonghla-B.CKhumbu Himal2501257070
10 Group "B"Mera PeakPD6470mSagarmathaKtm-jiri-shivalaya-Bhandar-sete- junbasi-nunthala- kharikhola-poyanbung-chadrabu- kothe-thangna-kharKhumbu Himal2501257070
11Mt.ABI6043mSolukhumbuLukla-Khumjung-Gokyo- Abi BCMahalangur2501257070
12Mt.Bokta6114mTaplejungCharikot-Simigaon-beding-BCKanchenjunga2501257070
13Mt.Chekigo6121mDolakhaCharikot-Simigaon-Beding-BCGaurishankar2501257070
14Mt.Cholatse6423mSolukhumbuLukla-Namche-Pheriche-BCMahalangur2501257070
15Mt.Kyazo Ri6151mSolukhumbuLukla-Namche-gokya-BcMahalangur2501257070
16Mt.Langsisa Ri6412mRasuwaDhunche-Lantang-Langshis-ABCJugal2501257070
17Mt.Larkya Peak6416mGorkhaGorkha-Samagoun-Lamjung BcManaslu2501257070
18Mt.Lobuje West6135mSolukhumbuLukla-Merala-BCMahalangur25012512570
19Mt.Nirekha6159mSolukhumbuLukla-Namche-gokyo-BCMahalangur2501257070
20Mt.Ombigaichen6340mSolukhumbuLukla-Namche-Gokyo-BCMahalangur2501257070
21Mt.Phari Lapcha6017mSolukhumbuLukla-Namche-Machermo-BCMahalangur2501257070
22Mt.Yubra Himal6048mRasuwaDhunche-Legberi BCLangtang Himal2501257070
23 Group "B"Paldor PeakF+5903mBagmatiKtm-Dhading-Ankhu khola-Rigaon-JAralang-Sertung-Krarka-somdangLangtang Himal2501257070
24 Group "B"Pharchamo?6279mJanakpurKtm-Dolkha-siguti-jagat-simigaon-Chagebukharka-Beding-Na-B.CRolwaling Himal2501257070
25 Group "B"Pisang PeakPD6091mGandakiKtm-Beshisahar-Bahundanda-Chamja-Bagarchhap-Chame- Pisang B.CManang2501257070
26 Group "B"Ramdung?5900mJanakpurKtm-dolkha-Siguti-GongerDoranangbu-Beding-Na-Kabung-Kydug-Kongma-Drolmaban- Tashi Lapcha-B.CRolwaling Himal250125100100
27 Group "B"Shigu Chuli(fluted peak)AD ?6501mGandakiKtm-pokhara-Tilkedhunga-Ghorepani-TadhaaniAnnapurna Himal400200

International French adjectival system (IFAS):グレーディングシステム

International French adjectival systemは、ルートの長さ、難易度、露出、コミットメントレベル(つまり、ルートの難易度)を考慮して、ルートの全体的な難易度を評価します。退却)。全体的なグレードは高度を組み合わせたものです。接近と降下の長さと難しさ; 難しいピッチの数とそれらがどれほど持続しているか。暴露; 岩、雪、氷の質。

  • Ffacile(簡単)。単純な、おそらく氷河のアプローチ、雪と氷はしばしば簡単な角度になります。
  • PDpeu difficile(やや難しい)。ルートは高度で長くなる可能性があり、雪と氷の傾斜は最大45度になります。氷河はより複雑で、スクランブリングはより難しく、登山にはビレイが必要な場合があり、降下には懸垂下降が含まれる場合があります。より客観的な危険。
  • ADassez difficile(かなり難しい)。かなり硬く、45〜65度の角度の雪と氷、UIAAグレードIIIまでのロッククライミング、ただし持続的ではない、大量の露出しているがより簡単な地形に加えて、ビレイクライミング。重大な客観的危険。
  • Ddifficile(難しい)。IVとVでのロッククライミング、50〜70度の雪と氷の斜面では、より困難で深刻です。ルートは長くて持続する場合もあれば、難しいが短い場合もあります。深刻な客観的危険。
  • TDtrèsdifficile(非常に難しい)。非常に難しい、このグレードのルートは、客観的な危険性が高い深刻な事業です。65〜80度の角度での持続的な雪と氷、可能な支援を伴うグレードVおよびVIでのロッククライミング、ハードクライミングの非常に長いセクション。
  • ED1 / 2/3/4 :extrêmementdifficile(非常に難しい)。非常に硬く、並外れた客観的な危険、垂直の氷の斜面、VIからVIIIまでのロッククライミング、可能な援助ピッチ。
  • ABOAbominablement difficile (恐ろしく難しい)限界での難しさと危険。

+(supérieurの場合はSupと発音)または-(inférieurの場合はInfと発音)は、”PD+” “AD-“などのようにそのグレードの下限または上限を表示。

2022年7月現在

27
6月

2023 Imja Tse[Island Peak]6,160 m

アイランド・ピーク[Island Peak]
アイランド・ピークはネパール東部のヒマラヤのサガルマータ国立公園[Sagarmatha National Park]にある山です。
標高:6,160 m(20,210フィート)
プロミネンス:475 m(1,558フィート)
コーディネート:北緯27度55分21秒 東経86度56分10秒

氷の砂漠周囲を囲まれていてディンボチェ[Dingboche]から見ると海に浮かぶ島のように見えるため、1951年に英国のエリック・シプトン[Eric Shipton]が率いるエベレスト山探検隊によってアイランド・ピークと名付けられました。

山頂は、実際にはLhotse Shar(8,383m)の南端から降りてくる尾根の延長にあります。
1953年、ジョン・ハント[John Hunt.]率いるエベレストへの遠征隊による訓練演習の一環としてチャールズ・エバンス[Charles Evans]、アルフレッド・グレゴリー[Alfred Gregory]、チャールズ・ワイリー[Charles Wylie]、テンジン・ノルゲイ[Tenzing Norgay]、他7人のシェルパによる南西サミットの初登頂。
1956年4月6日、アルバート・エグラー[Albert Eggler]率いるエベレストとローツェへのスイス遠征中にハンス・ルドルフ・フォン・グンテン[Hans-Rudolf Von Gunten]とギャルゼン・シェルパ[Gyalzen Sherpa]、プルバ・ロブサン・シェルパ[Phurba Lobsang Sherpa]がメインサミットに初登頂しました。

1983年にイムジャ・ツェ[Imja Tse]と改名されましたが、アイランドピークという名前は今でも口語的に使われています。
Climbing route

アイランド・ピークを登るのは難しいとは考えられていません。通常のルートの難易度はWS(UIAA Grade II)と評価されています。難易度が低く、アクセスしやすいため、人気のトレッキング・サミットです。したがって、それはしばしば商業遠征の標的になります。遠征隊のメンバーには、体力が良く、山での経験がほとんど必要ありません。その標高と極端な温度のために、山はより高いヒマラヤ山脈を登るためのトレーニングとしてしばしば使用されます。山は通常4月から5月と10月から11月の間に登ります。その人気のため、登山にはネパール登山協会からの有料の許可が必要です。

ディンボチェ(4340m)から、チュクンを経由してパレシャヤギャブ[Pareshaya Gyab] 5,087mのアイランド・ピーク・ベースキャンプにトレックしていきます。ベースキャンプは、イムジャ・ツェとイムジャ氷河[Imja Glacier]の側方モレーン(moraine、堆石、氷堆石)の間にあります。
ベースキャンプを午前2時から3時の間に出発するのと、登頂日に体力と時間を節約するために、ベースキャンプの反対側に回り込みハイ・キャンプ[High Camp](5,600m)からスタートする方法があります。水の供給と高地での睡眠に関する懸念により、ベースキャンプから開始する方が良いと考えられています。
ベースキャンプからハイキャンプまでは基本的にはハイキングです。ハイキャンプからは岩だらけの登りが続き、スクランブリングでの登りが必要となります。山の南東側にある氷河に通じています。峡谷の頂上で、氷河の旅が始まり、急な雪と氷の斜面まで進みます。※ヘッドウォールクレバス:山頂の尾根につながるヘッドウォールのにクレバスにより、チームが後退することがありました。 2009年4月、ネパール登山協会はネパール登山インストラクター協会にクレバスに階段(はしご)を設置するよう命じました。[6] 2016年の秋の登山シーズンの時点で、クレバスを横断するために高さ5メートルの固定アルミニウム製はしごが使用されています。
氷河を渡った後、高さ約100m、尾根に対して最大60度の急な傾斜があります。
この氷河の斜面には通常、管理された固定ロープが付いており、アセンダーを使用して登ることができます。次のそれほど急ではない露出した尾根は、頂上に直接つながっています。
頂上の少し前に、短く急な上り坂があります。
尾根全体には通常、頂上まで固定ロープが付いています。

 

ベースキャンプからキャンプ1[Camp1 5,700m]を登るルートもある。

山頂からは8000メートル峰の ローツェとマカルーがよく見えます。
エベレストは北にわずか10 kmの距離にありますが、頂上から2,300 m(7,500フィート)の高さにそびえるローツェの巨大な壁によって視界が遮られます。

22
6月

2 赤指山

22
6月

8 市道山

22
6月

9 今熊山

22
6月

30 刈寄山

 

刈寄山2023年5月27日

 

二等三角点

北緯 35°42′03″.6164 東経 139°11′48″.6453 標高(m) 687.05

 

 

 

 

22
6月

38 黒ドッケ

 

22
6月

39 黒山