ルドルフ・シュムント(Rudolf Schmundt, 1896年8月13日 – 1944年10月1日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中にアドルフ・ヒトラーの筆頭副官を務めていた。1944年7月20日の7月20日事件での負傷が元で死亡した。
エルザス=ロートリンゲンのメッツで軍人の家庭に生まれる。ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルのギムナジウムに学んでいたが、1914年8月の第一次世界大戦の勃発により仮アビトゥーアに合格して陸軍に志願、父リヒャルトが率いる連隊に配属された。同年早くも士官候補生・副官として第二級・第一級鉄十字章を受章。少尉に任官し、戦後の1921年にヴァイマル共和国軍に採用され、ポツダムの歩兵第9連隊に配属された。
1929年から1931年まで、第1歩兵師団参謀。1931年から1935年まで、国防省兵務局勤務。1931年に大尉、1936年に少佐に昇進。1935/36年、第18歩兵師団で中隊長、ついで参謀を務める。1938年1月29日、フリードリヒ・ホスバッハの後任として総統アドルフ・ヒトラーの筆頭副官に就任し、その側近くに仕えてヒトラーに心酔するようになり、ナチズム信奉者となった。信頼を得たシュムントは同年中佐、翌年大佐、1942年に少将、1943年に中将と、異例の速さで昇進を重ねた。
第二次世界大戦中の1942年10月、総統副官と兼任で陸軍人事局長に就任し、陸軍の人事を担当した。シュムントは昇進に年功ではなく実績を重視し、その結果前線勤務者の多くが急速な昇進を遂げた。また将校団に対して、ナチスの反ユダヤ思想に忠実であることを要求する訓示を発令している。人事については政治的従順さを重視し、また青少年のナチズム思想を育成するためヒトラーユーゲントに関心を払っていた。一方で有能な軍人とヒトラーとの橋渡し役を果たし、エーリッヒ・フォン・マンシュタインのフランス侵攻作戦計画をヒトラーに取り次いだのはシュムントであった。
1944年7月20日、ヒトラーが臨席する会議に参加した際、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐がヒトラー暗殺を狙って時限爆弾を爆発させ、シュムントは重傷を負った。ラステンブルクの野戦病院に搬送されたシュムントは、10月に死亡した。軽傷で済んだヒトラーは7月27日にシュムントを歩兵大将に昇進させ、死後の10月7日にはドイツ勲章を追贈した。シュムントの死について、ヒトラーは「最良の部下を失った」と評したが、当時参謀総長だったハインツ・グデーリアンはシュムントを「プロイセンの理想主義者」と評している。